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私が先生の自宅に押し入ったのは、二年前。
短大を卒業して以来勤めていた職場を辞め、行く先がなくて、それで先生のところに行こうと思い至ったのが始まりだった。
実家への出戻りは避けたかった。両親が望む大学へ進学できなかった私に、ただでさえ彼らの視線は厳しく、わざわざまたそれに刺されに自分から向かう気は起きなかった。
高校時代に訪問したことがあったから、先生の自宅がどこかは知っていた。半ば引き寄せられるようにして足を運んだ。彼の自宅は持ち家のはずだから、きっといると踏んでいた。
住む場所がないと延々頼み込み続けた結果、先生は今にも吐きそうな顔をしながら、二時間後にとうとう折れた。
自分がそんな顔をさせたのになんだかかわいそうになって、これではまるで悪徳商法の営業みたいだと薄く反省して、それでも私は先生の家と先生に固執した。
先生は、空いている部屋をひと部屋、私に充てがってくれた。今もそこが私の居室だ。
家具家電完備の社員寮を出た私には、自分の持ち物なんてほとんどなくて、必要な物をその都度買い足すツギハギじみた生活を繰り返して生きている。実りはあまり感じないけれど、それなりに楽しい。
先生の家族について、私は詳しい事情を知らない。
滅多に足を踏み入れない床の間に大きな仏壇があり、そこに三十代ほどの男性と女性の写真がそれぞれ置かれていることは知っている。それ自体は高校時代に知った。
当時高校生だった私には詳細などとても訊けず、結局、それは現在まで継続してしまっている。私は先生にとって特別な人間でもなんでもないし、この先もなににもなれないだろうから、軽率にその話題に踏み込むことは避けたかった。
私のプライベートに、先生は一切干渉しない。私の悪癖を知った後に、『男を連れ込むのだけは勘弁してくれ』と言われた程度だ。
それはすぐに了承した。私は先生に恋をしているのであって、火遊びを見せつけるような真似をするつもりはさらさらない。
日中には短期のアルバイトや日雇いの仕事に従事して、遊び歩かない夜にはパソコンでちょっとした小遣い稼ぎを探して試したり、スマートフォンでゲームをしたり……私の二年はそうやって過ぎた。
前職を辞める二ヶ月ほど前から不眠に悩まされていたから、適当に調べてヒットした心療内科に通って、また探して、通い直してと、そんなことを繰り返して四軒目のクリニックに落ち着いた。飛び抜けて名医だとは思わないが、不思議と会話がスムーズで楽しくさえ感じる初老の医師のところに、今も三ヶ月に一度のペースで通院している。
それは先生も知っている。
夜遊びに出かけない夜は、薬を飲まないと眠れない日が多いということも、多分。
先生はフリーのシステムエンジニアだ。まれに文章の校正が必要になるらしく、家に置いてもらってからはその仕事を請け負うこともあった。前職がそういう業種だったから、それなりに役に立てているとは思う。
律儀な先生は、きちんと報酬を払ってくれる。私は私で、多くはないにしろ、家賃代わりに月々決まった金額を先生に渡す。だから〝よく言えばルームシェア〟というわけだ。
自分の思考回路も貞操観念も、大いに狂っていることは承知の上だ。
けれど、それを非難していいのはこの世で先生だけ。二度と顔も見たくなかっただろう女に自宅へ押しかけられた挙句、同居までする羽目に陥っている、どこまでも真面目で哀れな私の片思い相手だけだ。
……先生と肌を重ねる夢を、たまに見る。
先生の手は優しくて気遣いもあって、時には優しく、時には激しく私を蕩かす。夢の私は先生との行為を肌でなぞり、脳内でもう一度なぞり、それを幾度も繰り返しては愉悦に浸る。
『絢』
先生が私の名前を呼ぶのは、夢でだけだ。
愛しい人を呼ぶような声を全身で受け取る私は、夢という閉じられた空間の中で、幸せそうに先生の首に腕を巻きつけて愛を乞う。
けれど、これ以上の幸せはきっとない、と思いを噛み締めた瞬間、私は夢の私から抜け出してしまう。
いつもそうだ。愛を注がれる身体から幽霊みたいにふらりと抜け出て、愛し合うふたりを――先生と自分を高い位置から俯瞰して、そして夢は終わりを告げる。
目が覚めたとき、大抵私は泣いている。
痛い。腹の奥が。頭が。胸が。心が。管を巡る血液に寂しさが溶け込んで、それは瞬く間に全身へ巡って、私の身体ごと寂しい生き物に置き換えてしまう。
先生は、私の理想であり、すべてだ。
彼はおそらく二度と私を誘わない。そんな先生を絶対的な理想として祀り上げ、純粋な恋を夢見がちになぞっている自分が好きだ。
酔っているというのは、多分こういうこと。
つまるところ、私は私しか愛せない。
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