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その日、私は久々に派手な失敗をした。
条件に合致しない男を選んでしまったのだ。
最初の夜に丁寧に触れてくれたから、二度目があってもいいかと軽い気持ちで誘った。
もし今回も満足できたら、また前みたいにセフレを作ってもいいかなと呑気に考えて、しかし状況は事後に一変した。
君を愛している。
いずれは結婚したいとも思っている。
もう少し慎ましく生活してほしい。
これからは他の男とは会わないでくれ。
……なんの呪詛だよと頭を抱えた。
過去の経験上、最も厄介なタイプだった。私の意向になどまるで耳を貸さない、自分こそが正しいと思い込んでいる、私にとって天敵とも呼べる種類の男。
脱ぎ散らかした服を無言で手に取ると、男は眉をひそめた。断る、と手短に告げて客室を出ようとした途端、痛むほどきつく腕を掴まれた。
どうして、と問う声が頭の中でぐらぐらと揺れる。
こっちの台詞だ。なぜ分からない。そんなエゴまみれの口説き方で、どうして相手が素直に応じると思えてしまうのか。
『男のほうから次を誘うのはルール違反よ』
毅然とそう言い放ってやった。
まっすぐ見据えた男の両目に、悲哀ではなく憤怒が広がるさまを見て取った。本気で愛を告白した自分を、他の男と同列に配置された――それが大いに癇に障ったらしく、間を置かずに拳が飛んできた。
腹を殴られ、睨みつけたら今度は頬を打たれた。顔への暴力は避ける男が多い中で……最悪。大ハズレもいいところだ。
明らかに私を下に見ている。
やがては暴力すらも愛情表現のひとつだと言い出しかねない、絵に描いたような屑。
バッグを振り回し、膝に蹴りを入れ、男が怯んだ隙を突いて客室を飛び出した。
無我夢中だった。乱れに乱れた自分の髪が頬を強く打っても、気に懸けてなどいられなかった。
通報することには頭が回らなかった。それよりも二度と関わりたくなかった。
よくも、と呪いじみた思考ばかりが頭を占拠し、私は、情交と暴力のせいで動きが鈍る身体を引きずりながら外に出た。
腹も頬も、殴られた場所がどくどくと痛みに疼く。今の自分がどんな顔をしているのかなんて、考えたくもなかった。
ある程度歩いてからタクシーを捕まえた。歩いて帰る気にも、他の場所に泊まる気にもなれなかった。
男が、タクシーを捕まえやすい駅近くのホテルを選んでいたことにのみ、薄く感謝を覚える。それと同時に、肌が濡れるほどの大量の汗が噴き出してきた。
タクシーの中で、屑男の連絡先を削除する。
ハズレの男を引いたのは、別に初めてではない。むしろ何度も引いてきた。そのたび今みたいに疲弊して、気まで滅入らせて、それでも私がこの生き方を変えないのはどうしてなのかとふと思う。
信号の赤が窓を照らす。燃えているようにも見えるそこへ、そっと指を這わせた。
外気と内気を隔てる窓。私を外界から切り離して帰るべき場所に運んでくれる、タクシーという箱。
大丈夫。
私は、まだ、大丈夫だ。
「……次の信号を右です」
火遊びを楽しんでいる気になっている。結局は私も、単にそれだけなのかもしれなかった。
身体を差し出したところで、相手に愛してもらえるわけではない。愛せるわけでももちろんない。そんなことは分かっていて、その上で、私は自分の意志でそうしたくてそうしている。
それなのに。
「こちらは?」
「まっすぐです、次の信号を過ぎたら見える狭い角を右に」
頬骨の辺りが熱い。痛みよりも熱のほうが気に懸かる。
タクシーの運転手は、そろそろ腫れてきているだろう私の顔面についてなにも言わない。夜闇のせいで見えていないのかもしれないが、配慮だとしたらありがたいなと思う。
ときおり、わけが分からなくなるくらいぎりぎりと胸の奥が軋む。
自分は取り返しのつかない間違いを犯してはいないかと不安になって、柄にもなく震えて、怖くなる。
こういう遊びを楽しめる期間なんて、人生のごく一部だ。
先生は『年齢は関係ない』と言ったけれど、将来皺まみれの老婆になった私を抱きたがる男は皆無に違いない。その未来は誰もに等しく訪れる。私も、私が消費している、あるいは私を消費している男たちも同じだ。例外はひとりとしていない。
いつまで続ける。楽しいと思えているうちは続ける、それが私の答えだ。そのつもりで生きている。他人にどうこう言われる筋合いは一切ない。
ああ、不愉快だ。
お前のためだと言いながら、ありのままの私を殺しにかかる、つまらない生き物。
恋しい人の元に帰ろうと思う。
今の私の足は、ちゃんとここへ帰り着くようにできている。
結局、私が帰りたいと思う場所はここだけだ。帰巣本能じみていると思った途端、私はそんな自分のことを声をあげて笑い飛ばしてやりたくなった。
先生に迷惑をかけ続ける私。
先生に寄生して、困らせて、そればかりの私。
……なにが帰巣本能だ。
先生にとっては、私もきっと、屑でしかない。
「ただいま。先生」
いつも通り返事はなかった。
けれど、いつも通り換気扇の下で煙草を吸っていた先生は、私を――おそらくは頬の痕を見るなり露骨に固まった。
「……誰にやられた」
煙草の火をぐしゃぐしゃに揉み消した直後、先生は、引き戸の手前に立ち尽くす私の傍へ足早に歩み寄ってきた。
低い声だと思う。それに、普段よりもずっと怖い声だとも。
分かっている癖にそういうことを訊く、嫌な男。私が好きな男。私が好きだと思い込んでいるだけなのかもしれない、私が拒んだ、私を抱かない、私を抱けない、男。
「ねぇ先生、抱いてもいいよ。今日は特別」
とびきり媚びた声で囁き、手を伸ばして頬に触れる。ちょうど今の私が腫れさせている辺りだ。
先生の顔は、髭が半端に伸びてザリザリしていた。初めて触れる先生の肌。愛しい人の形。その感触を、指先と胸の奥に焼きつける。
刻み込む。忘れることなんて、絶対にないように。
「……放せ」
「嫌よ」
「っ、放せ。いいから早く冷やし……」
「嫌」
先生は、私の接触を頑なに拒み続けた。触れた手を外されてはまた触れさせる、そんなことを数回繰り返した後、埒が明かないと判断した私は先生の腕を強引に引っ張った。
猫背をさらに丸め、先生は畳の上に膝をつく。大いにバランスを崩した彼の隙を縫い、私は脚を使って先生の腰を封じ込め、馬乗りになった。間を置かずに腕を押さえて動きを遮ると、先生はついに抵抗をやめた。
「顔、汚いから?」
「は?」
「腫れてて気持ち悪いから嫌なのかなって思って」
疑問を口に乗せると、眼下の先生はうんざりした顔で私を眺めた。緩く首を横に振った後、先生はまたも私の拘束から抜け出そうと腰を引く。
この状況で拒まれること自体が初めてだった。傷ついた気分になる。そこまで嫌かと、喚き散らしたくなる。
「いいじゃん、別に病気とか持ってないよ。誰が相手でも絶対ゴム使わせてるし」
「そういうことを言ってるんじゃな……」
「っ、じゃあどういうこと言ってんだよッ!!」
耐えられたのはわずか数秒だった。
この家に来てから深夜に大声をあげたことがなかったからか、先生は私を見つめたきり固まってしまっている。その顔が余計に私を滅入らせる。
今この空間で、私だけが、どこまでも醜かった。
「汚い女だって思ってんでしょ? 誰にでも脚開いて、誰とでも、……そうだよそういう女なの!! 私はこれでいいの、これがいいんだよッ!!」
声を荒らげて、叫んで、責めて、泣いて……醜い女。醜い、人間。
ぼたぼたと涙が溢れ、私は自分の目元を雑に拭った。そのときに零れ落ちたひと粒が先生の頬を濡らし、思わず指を伸ばす。
汚れてしまう。汚してしまう。そんなことがあってはならないのに。
震える指が先生の頬を掠めた瞬間、私のそれは、彼の大きな手に掴み取られた。
「……〝変われ〟なんて誰も言ってない」
先生の声は、もう怒っている感じではなかった。普段より穏やかにさえ聞こえた。
私の指を包む先生の手は、思っていたよりも大きくてあたたかい。初めて触れた、触れられた、そう理解が及んだ途端に胸が高鳴り始める。
数時間前まで他の男に脚を開き、同じ相手にひどい侮辱と暴力を浴びせられ、ぼろぼろになって帰宅したはずの私は、その不快感がまったく癒えていないというのに、今こうやって先生に、恋をしている相手に、甘やかに胸をときめかせている――反吐が出る。
空いているほうの手で、先生は私の首を引き寄せ、後頭部に手を添えてきた。
唇と唇が重なり合う。夢で幾度も繰り返したキスとは、似ているようで似ていなかった。
柔らかな唇を堪能するため、男に慣れきった私の身体は勝手にキスを深めたがって、そんな自分に辟易して、だが。
「今のままでいい。お前は自分がしたいように生きてていいんだ。ただ」
「……え?」
「俺もしたいようにするよ。今度は」
……今度、という言い方が引っかかった。直後に、それが五年前の私の拒絶を示しているのだと思い至る。
ゆっくりと眼鏡を外し、押し倒された姿勢のままでそれを傍の棚に置いた先生は、感情の宿らない目で私に向き直る。
ぞくりとした。その目にこそ奪われる。
冷たい、という言葉は当てはまらない、起伏のない、平らな、プラスでもマイナスでもない、ちょうど、ゼロ。
先生のそういうところが堪らなく好きだ。私を抱きたいがために媚びることが、絶対にない。
「五年前。覚えてるか」
「……あ……」
「あれから、頭の中で何度お前を犯したと思ってる」
まさに五年前のできごとを反芻していた分、一瞬反応が遅れた。
無関心の視線を私に突き刺したきり、先生は私の頬をなぞる。視線とは裏腹に、指先は優しかった。ずきりと急に痛覚が走り、それが例の屑男に殴られた場所だと一拍置いてから気づく。
頭の中で、私を犯した。何度も。誰が……先生が?
瞬く間に頭の芯が焼け焦げ、震える息を落とすしかできなくなる。吐き出した私の息ごと閉じ込めるように、先生は再び私の唇を奪った。
『したいようにするよ』
先生は、私をどうしたいんだろう。
爆発的に募っていく期待と、それと同じ勢いで音を増していく警鐘。真逆のふたつに突如襲われた私の身体は、耳は、先生の声を受け取るだけの単なる道具に成り果てる。胸ばかりがどくどくと不穏な軋みを上げ、ひどく息苦しかった。
「お前がここに来てからもだ。何回かは、犯した後に殺す想像だってした」
――先生は、私を、どうしたいんだろう。
ひゅ、と掠れた音が喉を通る。
薄っぺらのチュニックを静かにまくり上げる先生は、私の腹部を見たそのときになって、初めて無関心以外の表情を覗かせた。
彼の視線が向かう先に、私も自然と視線を落とす。腹の痣。さっきよりもやや色を濃くした気味の悪いその痕を、先生は腫れ物に触れるような仕種で撫でつけた。
「……殺してやりたい」
……誰を? こうした男を? それとも、私を、だろうか。
優しい触れ方と物騒な喋り方、どちらが先生の本音なのか、判別がつかなくなる。同時に、判別をつける必要などあるのかとも思う。
首に緩く指をかけられ、そっちか、と諦念が過ぎった。
もうそれでいい気がした。先生に恋をしていると思っているままの、私の愛する私がまだ息を繋げられているうちに先生の手で終わらせてもらえるなら、それはむしろ幸せなことなのではないかと。
……結局、先生は私の首を絞めもへし折りもしなかった。
無関心の視線にほんの少しの寂しさを混ぜ込んで、先生は私から服を剥ぎ取っていく。何度も犯す想像をしたというわりに、こちらが心配になってくるほどたどたどしい仕種だった。
先生との情交は、まるで夢のようだった。
文字通り〝夢のよう〟。幾度も夜に夢見たそれを、一秒一秒なぞりながら進められているみたいな、腹の奥と頭と心がぎりぎりと痛み出す、そういう。
ただ、先生の指は夢より遥かに拙かった。それが私を余計に狂わせる。そして、先生が私の名前を呼ぶことは、夢とは違って一度たりともなかった。
飛び抜けて整った顔をしているわけではない、どこにでもいそうな冴えない眼鏡男。せっかく平均より高そうなのに、猫背のせいでいろいろ台無しになっている背丈。癖っ毛なのか寝癖なのか区別がつきにくい、柔らかそうな髪。
ヘビースモーカーなのに、私の前では吸わない。古めかしい一軒家でフリーの仕事をしていて、ときおり家庭教師のアルバイトに出かける。恋人はいない。家族も……多分。
それが、私が知る彼のすべてだ。
そんなことしか知らない。そんなことしか伝えてもらえない。理由はどうあれ、二年も同じ屋根の下で暮らしているのに。こんなに好きなのに。
「せんせい」
――こんなにひどいことを、強いているのに。
あれほど物騒な言葉を口にしていた癖に、先生は私を、きっと彼にできる最大限の優しさをもって愛してくれたのだと思う。
居間の畳の上、脱いだ服を敷いただけ。他の男が相手だったら絶対に許していないその状況で、私は喜んで先生を受け入れた。
技巧に長けているとは言いがたい先生の愛し方に、私は声を張り上げながら酔い痴れた。
滅多に喘ぎを落とさない喉が早々に音を上げ、ひりひりと痛み出す。その痛みごと無視して、私は自分から脚を広げ、唇を寄せ、広い背に腕を回して、先生をかたどる肌とその内側のすべてを独占するために躍起になった。
殺してもいいよと二度も言いかけたのに、二度とも言えずじまいになった。
一度はキスで口を塞がれたから。もう一度は、先生を悲しませてしまう気がして自重したからだ。
涙を零しては、感じて喘いで引きつらせて、先生を締めつけて、愛したつもりになった。愛されたつもりにもなった。
先生は、終始私の傷を気にしていた。
触れないように、あるいは押し潰してしまわないように、わざと離れたり手のひらでそっと庇ったりする仕種を目にするたび、私は生理的な涙でごまかしながら別の理由による涙を落とした。
これで〝殺す〟なんてよく言えたものだと、笑ってしまいそうになる。
避妊具を隔てて吐き出された先生のそれは、私の身体を汚してはくれない。
私という人間ごと先生で塗り潰してほしいと心の底から願っていたのに、先生は私になにも与えてくれないし、残してもくれなかった。
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