ダブルスタンダード

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     *     ***      *  気がつくと、私は知らない部屋にいた。  居間の畳に転がっていたはずが、狭いベッドの中に収まっている。隣には目を閉じた先生がいた。一度も入ったことがない先生の私室にいるのだと、ようやく思い至る。  先生の呼吸は規則的だ。眠りの底にありつつも私の胸元にきつく腕を巻きつけていて、少しも離れそうにない。それでも、動けばその瞬間に起こしてしまう気がして、だから私は黙って朝を待つことに決めた。  眠れない夜は、永遠に終わらないのではと訝しくなってくるほどに長く、ゆっくりと時間をかけて明けていく。恋い焦がれる男の腕に抱かれながら、私は息を殺して朝の訪れを待った。  こんな幸せは、私にはどうしたって荷が重い。ぎりぎりの綱渡りをして生きてきた分、その生き方こそが私にとっての普通になってしまっている。  夢で良かった。夢だから良かったのだ。喰い喰われる以外の幸せは、私を私ではない他のなにかに置き換えてしまうだろう。  自室に無造作に投げてある睡眠剤の存在を、唐突に思い出す。  先月処方されたそれを、今回、私はまだひと粒も飲んでいなかった。眠れない日がそれほど続いてはおらず、節約する気でいたのだ。主治医に聞かれたら怒鳴られてしまいそうな杜撰なその手段を、ああ、そうしておいて良かったと心から思う。  空が白み始めた頃になっても、私の考えは変わらなかった。  男の腕から慎重に抜け出る。  起きてしまうならそれまでだと思って外した長い腕が、再び私を掻き抱くことはなかった。ドラマチックな展開は、そう簡単には起こらないようにできている。零れそうになった苦笑を、私は慌てて噛み殺した。  ベッドを下りる。安物と思しきシングルベッドは、規定外のふたり分の体重から解放され、微かな軋み声をあげて喜んだ。  自室に戻り、服を着替え、バッグに手を伸ばす。そこへ薬を薬袋ごとしのばせる。  この家の中で、というのは気が引けた。あれほど焦がれた人を、これ以上妙な形で苦しめる気にはなれなかった。  ――早朝、午前五時前。  間もなく夏を迎えるとはいえ、この時期の朝晩はまだまだ肌寒い。夜明けの時間帯特有の冷ややかな空気を胸いっぱいに吸い込むと、少しだけ頭が冴えた。  メイクを落とさず、しかもさんざん泣き喚いた昨晩の顔のままで外出してしまった。さぞかし薄気味悪くなっているに違いないと思ったけれど、笑う気にはなれなかった。  せっかくだから見晴らしのいい場所で、などと浮かれた思考が脳裏を過ぎったが、生憎、近くの交差点の歩道橋くらいしか思い浮かばなかった。  ……歩道橋。歩む足がふと止まる。  薬以外にもいくらだって方法はあるのではと、だんだんそんな気がしてくる。しかしだからといって、先生に可愛がられたばかりのこの身体が、外側も内側もぐちゃぐちゃに潰れて終わるのは精神的につらかった。  なにも積極的に死にたいわけではない。だが、汚れに汚れたこの重い身体を引きずりながら息を繋げ続けるのはどうにも苦しい。  それに、私の一部を殺した先生に、私の本当の死を見せつけてやりたい気もして、私はやはり醜い人間なのだなと改めて実感する。  腹や顔に残る私の傷が先生の手によるものではないと証明できるのは、この世で私ひとりだ。昨晩から考えていることを本気で実行に移すつもりなら、できるだけ先生の傍を離れて遠くに行ってからでなければと思うのに、足の動きはどこまでも鈍かった。  私の世界は狭い。  仕事や遊びでさまざまな場所に出かけはするが、私という人間に根づいている世界は悲しいほどに限られていて、先生を主軸に生きる今の私にはこれ以上遠くになんて行けない。行けると無理に思い込んでも、思考とは裏腹に足が前進を拒んでしまう。  どうしようか。どうもしたくない。なにも考えたくない。なにもしたくない。  怠い足取りは、歩道橋の手前でとうとう止まってしまった。  情交の余韻が至るところに残る身体を引きずって歩く静かな街路は、いつにも増して私の神経を滅入らせた。昨晩嗄れるまで声を落とした喉が鈍く痛み、呼吸を繰り返すことすら億劫だ。  こんなにも息苦しい朝があるのか、と思う。この世のどこかにあることぐらいは漠然と想像がつくものの、この身をもってわざわざ体験したくはなかった。  強引に足を動かす。気怠い身体に、縦も横も幅が狭い上り階段は地味に堪える。歩道橋のちょうど中央、道路の中央線の真上まで歩みを進めると、視界はそれなりに晴れた。  眼下を走り抜けていく車は一台もない。静かだな、と間の抜けた思考を巡らせつつ、私はバッグの中に腕を突っ込んで薬袋を取り出した。飲み物がないなと気づいたが、今から階段を下りてコンビニへ向かう気にはさすがになれなかった。  ガサガサと袋を開け、包装シートからひと粒、またひと粒と白い錠剤を取り出しては、飴でも放り込むように口に入れていく。  ごろごろした錠剤を口内で雑に弄ぶと、人工物にふさわしい苦味が容赦なく舌を刺し、さらにはひりつく喉をいたぶる。途方に暮れてしまいそうだ。私は顔をしかめて、感傷的だな、と思う。  そう、感傷的だ。とても。  こういう行動が、他のなにより嫌いだったはずなのに。  ひと思いに飲み込む勇気が出てこない辺りも、いかにも自分らしくて、自分に酔っている感じもして、いっそこのまま橋下に飛び下りてしまいたくなるくらいに癪だ。  ――さっさと飲み込んでしまえとばかりに舌を動かした、そのときだった。  しんと静まり返る早朝の空気を、微かな音が切り抜いた。  ……人の足音だ。ばたばたと忙しなく走っているような音は、少しずつこちらへ近づいてきていて、私はつい辺りを見渡して、そして。  見つけてしまった。  さっきまで自分が歩いていた眼下の歩道に、その人影を。 「っ、絢ッ……!!」  びくりと肩が震え、唐突に我に返った。口の中に含んだそれがなんだったか、はなから分かっていた答えを改めて突きつけられる。  堪らず咳き込んだ。  下を向いた瞬間、わずかに溶け始めていた錠剤が口から飛び出し、慌てて口元を押さえる。手のひらに収まりきらなかった数粒は地面に落ち、狭い歩道橋の道に散らばる白いそれらが視界に入り、呆然とする。  足音は、いつしか階段を駆け上がる音に変わっていた。  近いな、とぼんやり思う。それはすでにすぐ傍まで迫っていて、それでも私は、この期に及んで振り返ってもいいものか迷って、そうこうしているうちに足音の主は私の隣に辿り着いてしまった。  強く腕を引かれ、視界が真っ黒に染まる。  次いで、背を締めつけるような感覚が走った。その正体には一拍置いてから気がついた。  昨晩、私を隅々まで愛した腕が、また私を掻き抱いている。  二度と味わうはずがなかった抱擁。頭を埋めさせられた胸元から聞こえてくる乱れた鼓動。不可思議としか言い表しようがない、感覚。 「……先生は」  苦味に痺れた口から零れたのは、予想以上に掠れた低い声だった。  一度開いてしまえば最後、それは私の意思など汲もうともせず勝手に動き続ける。声と一緒にぽろぽろと溢れ出した涙に、先生が気づかないわけは多分なかった。  結局、私は、私が欠けたり損ねられてしまったりすることを許せない人間なのだ。  私を私たらしめる要素を蔑ろにする者は、男だろうと女だろうと、あるいは意識的だろうとそうでなかろうと、あらゆる枠組みを超えて許せない。それなのに。 「ひどいよ」  それなのに、あなただけは。  こんなときになってから初めて名前を呼ぶなんて、あなたは、本当に卑怯だ。  ずれた眼鏡。よれたシャツの裾。昨日も見たジーンズ姿。寝癖だらけのぐちゃぐちゃの髪。半端に伸びた髭。  あなたを形づくる要素は――なんの変哲もないように見える気さえするそれらは、私にとってはそのどれもが特別であり、すべてでもある。 『絢』  疾走のせいで乱れたあなたの呼吸は、なかなか落ち着きを取り戻さない。長年の喫煙の代償は服にもあなたにもすっかり染みついて、容易には抜けなくなったのだろうそれを、私は臓腑の底まで深く深く吸い込んだ。  途端に噎せて咳き込んで、先生は反射的に私から身を引こうとして、それでも私は先生から離れられない。縋る腕を外せなかった。  今この手を放したら、今度こそ、私はあなたのなににもなれなくなってしまう。 『あや』  あなたは、私のどこまでを理解してくれるだろう。  一方的に期待を寄せるのは間違いだと思う。けれどあなたは、間違いを犯してもいいと私に思わせるほどに根深く、私の中に息づいてしまっている。  あなたに淡い恋心を抱いていた私を無惨に殺したあなただけが、私をこんなふうにできる。元の私とは異なる、新たななにかに置き換えてしまえる。  それが正しいことかどうかなんていう話は、今は関係ない。 「飲んだのか」 「……ううん。全部吐いちゃった」 「口を見せろ」 「残ってないよ、もう」 「見せろ」  先生の命令じみた口調は新鮮だ。  私は黙って口を開き、口内を丹念に泳いでは薬物の残骸を探す先生の指を、彼の気が済むまで受け入れ続けた。  良かった、とは、先生は言わなかった。  ただ、私を抱き寄せて、手を強く引いて……ああ、あなたのそういうところが、私は。 「帰るぞ」 「先生。私、」 「戻ってから聞く」  帰るという言い方が、わけが分からないくらいに私の胸を締めつける。  私を連れてあの家に帰るために、あなたは私を追いかけて、息を切らせてまで走って……馬鹿みたいだ。  そうやって、あなたは私の中に譲れない場所をまたひとつ形づくる。  私に、あなた以外を選べなくしてしまう。 「……うん」  あなたは私になにも棄てさせない。これからも、棄てろと強いることはないのだろう。  だとしても、他のなにを――例えば、あれほど他人からの干渉や侵害を厭って貫いてきた己の生き方を棄ててでも、私はあなたの傍にありたいと願ってしまうのだ。  きっと、この先も、ずっと。 〈了〉
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