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不興を買えば噛み殺されてしまうのでは、という恐怖に耐えかね、ユーリアはその場にへたり込んだ。
領主が焦ったような声を上げる。
「おい、大丈夫か?」
執務机を回って彼女のそばに歩み寄った。彼の手が目の前に伸びてきて、ユーリアは反射的に後ずさりする。
それを見て、領主は腕を下ろした。
「べつに危害を加えるつもりはねぇよ」
ユーリアは、相手を思いきり拒絶してしまったことに気付いた。だが、怯えきった心は自分でもどうしようもない。
領主は人狼の中でも長身らしく、おそらく二メートル近くある。ガッシリした肩で手足も長く、ユーリアは自分が小人になった心地だった。
さらに獣の顔をしているとなれば、無力な彼女は震えるばかりだ。
遠くから補佐官の声がした。
「その娘にとっては、獣だらけの檻に放り込まれたようなものですから」
「よくも、同族をこんな目に遭わせられるもんだ」
領主はフウッとため息をついて、その場で胡座をかいた。補佐官が慌てる。
「か、カレルさま、床に座るなど——」
「見なかったことにしろ」
領主カレルは背中を丸めて、覗き込むように彼女を見た。
「使者は、お前を領主の娘だと言ったが、ひょっとして庶子じゃねぇか?」
事実を見抜かれてユーリアは愕然とした。さらに縮こまり、許しを請うように両手を握り合わせる。
「申し訳ございません……。これは決して、貴方さまをないがしろにしたわけではなく——」
「謝らなくていい。なに、俺だって庶子だからな」
「えっ?」
ユーリアは驚いて相手をじっと見た。恐ろしい狼の顔の中で、金色の瞳は落ち着いた空気を漂わせている。
「ほ、本当……ですか?」
「ああ。成人するまで庶民として暮らしてたのに、後継者がいないってんでここに連れてこられて、今や貴族サマだ。ありがたくって涙が出るぜ」
後方にいる補佐官が、やれやれといったふうに目元を片手で覆った。
「その件については納得していただいたはずでしょう。あと、口調がすっかり元に戻っておいでですよ」
「聞かなかったことにしろ。高い椅子に座ったからには、責任はまっとうしてやるよ。けど、たまには愚痴だって言いたくなる」
カレルは、後方に流した視線を彼女に戻した。
「当人の意思を無視して周りに事を進められたのは、同じだろ? かわいそうにな。俺は、お前に対して怒ってるわけじゃねぇから」
予想外に優しい言葉をかけられて、ユーリアは呆然とした。彼も似たような思いをしたという事実。恐怖がすこし薄れた。
カレルが自分の顎に手を添えた。
「お前も、領主の屋敷で暮らしてなかったんだろ? それなのに、父親が貴族だからってこの場に引き出された。従うしかなかったんだな?」
ユーリアは正直に答えるか迷ったが、相手がその気になって調べれば分かることだと思い、うなずいた。
「私は市井に過ごしていました。そのまま歳を重ねていくのだと……。父からすれば、必要のない存在ですから」
口にしてから、最後の言葉は失言だったと気付く。
「す、すみません、つまらないことを言いました」
「いや、そんなこと誰にも話せなかったんだろ? ここは人狼の領地だ、気兼ねする必要はない。いっそ外に出て、『親父のクソバカ野郎ー!』と叫んじまえよ。スッキリするぜ?」
思わぬ提案にユーリアは驚き、ついクスッと笑ってしまった。
「それをしたら、人間は奇怪だと思われそうです」
「大丈夫だ。俺もときどき夜に咆哮してるから。おかげで、怒らせたら怖い領主というイメージの出来上がり。仕事がやりやすくて万々歳だ」
ユーリアは何と応じればいいのか分からず苦笑する。向こうで補佐官がため息をついた。
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