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思いやる別れ
それからユーリアとカレルは、一緒にいる時間を笑顔で過ごした。
手をつないで庭を散歩したり、馬に乗って遠出したりした。澄んだ湖のそばで口にする簡単な昼食は、贅を尽くしたディナーより美味しかった。
雨でベランダに出られない日も、たわいもないお喋りをするだけで楽しく、あっという間に時が過ぎる。
ユーリアはメイドに頼んで、自分の手で心をこめて紅茶を淹れた。カレルは仕事を終えて私室に戻るときは、花束を彼女に持ち帰った。
夜は抱き合って眠る。
幸せすぎて、ユーリアは怖いと思った。でもカレルのそばにいると、ただただ嬉しい。
金の瞳が彼女を見つめる。そのあたたかな眼差しを心に刻み込んだ。
* * *
予定の日がやってきた。
朝の挨拶のとき、ユーリアは普段どおりに振る舞ったが、朝食では何を話せばいいのか分からなかった。
カレルも言葉少なだった。時折、スプーンが皿に触れる音がわずかにして、静けさを深くする。
今日ばかりは、料理の味が感じられなかった。
この屋敷に来てからのことを、きちんとお礼の言葉にしなければ。けれど、伝えたいことがたくさんありすぎて、考えがまとまらない。
不意に視界がぼやけて、彼女はあわてて感情を抑え込んだ。
食事を終えたあと、一人でカレルの私室に戻った。
来たときの荷物はわずかで、すでにまとめてある。最後にもう一度、共に過ごした部屋を見ておきたかった。
寝室を見回し、ベランダに出て木々の緑を眺める。ここにいたのはたったの三ヶ月。でも彼女にとっては、第二のふるさとのように愛着のある景色だ。
部屋に戻ったとき、使用人が荷物を取りにきたので、「お願いします」とユーリアは微笑した。
玄関ホールへ行くと、カレルやラディムはもちろん、使用人たちも出迎えてくれた。人狼の彼らが人間にそんな対応をするのは、あるじの心遣いが伝染したからに違いない。
中央に立つカレルのそばへ歩み寄る。心の中が混沌として、うまく言葉にする自信がない。諦めて、思いつくまま口にした。
「カレルさま、ありがとうございました。とても楽しい日々を過ごせました。いろいろと好き勝手してしまい、申し訳ありません。でも、いつも優しく見守ってくださいましたね? 素敵な思い出の数々、一生忘れません。これまでお世話になりました」
深々と頭を下げる。
思いの百分の一も伝えられない。けれど、百倍の言葉を連ねても、すべてを表すことはできないだろう。
大丈夫。こちらの言葉がおぼつかなくても、彼はその大きな手ですくい取ってくれる。
息を吸って体を起こす。カレルは何かをこらえるように険しい目をしていた。互いの視線が重なると、わずかに和らげる。
沈黙のあと、穏やかな声が流れてきた。
「感謝している。お前は人狼に嫁がされたというのに、種族の違いなどないとばかりに、まっすぐ接してくれた。笑顔で俺たちを和ませてくれた。誰より立派だ。お前なら、どこにいても幸せをつかめる。それを祈る存在がここにいることを、覚えていてくれ」
「カレルさま……」
ユーリアはこくりとうなずいた。
「はい。これまで、自分にできることは何もないと思っていました。やってみないうちから決めつけるなんてバカでした。失敗したって、笑い飛ばせばいいんですよね。みなさんの優しさに受け止められて、わがままを覚えてしまいました。でもこれが私です。ここでの経験は、私の中で生きていきます」
カレルはいったん顔を伏せてから、改めて彼女を見た。
「ずっと元気で、いつも笑顔でいろ。でなければ許さないからな」
「カレルさまもみなさまも、健やかにお過ごしください。ここにいる方々は、私にとって、とても大切な存在です」
そのとき、人狼たちの表情が分からなくても、別れを惜しむ気持ちがユーリアの中に流れ込んできた。彼女はあたたかく満たされる。
カレルが歩み寄ってひざまずき、彼女を引き寄せ抱きしめた。ユーリアはあわてる。
「か、カレルさま、みんなの前で膝をつくなんて」
「お前が子供のように小さいから悪いんだ」
「申し訳ありません……」
彼のふっと笑う気配がした。
「無粋なことを言う者はいない。むしろ、こうしなければ後でそしられるだろうよ」
「まさか」
カレルはしっかり彼女を抱きしめた。
「お前のぬくもりを、ずっと覚えていられるよう」
ユーリアはそれを受け止め、すがるように彼の服を握った。
「忘れられるはずがありません……」
「そうだな。これは俺とお前の、永遠の契りだ」
ユーリアは体を震わせた。
「私の旦那さま……」
「ユーリア……俺の愛しい妻」
「私は幸せです」
「ああ、俺もだ」
もう何ひとつ言葉にならない。
ひとときの抱擁で、一生ぶんの時間が過ぎていった。
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