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ブルーハワイ
世界はふたっつあるのに、みんなしてその事をずる賢く黙っている。
*
雲が真夏の空をどんどん覆って、空色を食っていった。やがて東から順にダバダバと激しい雨が私たちに迫って来る。
私とケイちゃんは歓喜の悲鳴を上げながら天気の狭間を駆け抜けて、間一髪のところで目指していた駄菓子屋にたどり着いた。「危ねかったねえ」と駄菓子屋のおばちゃんは声を掛けてくれたけれど、子どもの私たちはただもじもじするばかりで、こういうときどう応じたらいいのかを心得ていない。
ケイちゃんは私と同い年のいとこで、夏休みに佐久のおばあちゃんのうちに遊びに行けば必ず会える。佐久は私にとって何もかもがダイレクトな場所だった。公園なんてちゃちなものはどこにもない。遊びに行くのは何の安全策も施されていない裸の川や山や岩場で、遊び道具は本物の魚や昆虫だった。蛇口から出る水はきりりと冷たく、夏の暑さは刺すようで、冬の寒さも刺すようで。それから、空はフィルターの掛かっていない濃い青だった。私の住んでいるところよりずっと標高が高いはずなのに、なぜだかいっそう遠くにあるもののように思えるのが不思議だった。
この駄菓子屋は、ここでは唯一の人工的な遊び場だった。毎年私たちはここへ来て、おばあちゃんに貰ったお小遣いでかき氷を買って涼むのだ。
味は何にするね、いつものやつかね、とおおらかに問う声に私たちは精一杯頷いて答える。
「ブルーハワイ、ください」
*
瞬きをする。
もういちど、瞬く。
窓越しに空が見えた。ブルーハワイの色。まぶしく光る雲がふんわかとしている。空と雲はまったく別のものとして分離している。
起き上がって、見廻して、自分の部屋だと気が付いた。そうしてこうも気が付く。
──ああ、私、大人だ。
新鮮なショックに包まれる。
世界はふたっつあるのに、みんなしてその事をずる賢く黙っている。
ケイちゃんとの記憶がときどき怪しくなる。私たちは夏休みになると毎年会って、それは中学生まで続いて、以降は私もケイちゃんも地元から離れて進学して就職して──その先の近況は疎遠になって知らないけれど、さしたるトラブルもなく今日まで来たはずだ。
ケイちゃんの記憶どころか、自分自身の記憶さえ怪しくなることもある。途中でぶつりと切って雑に繋げて編集した映像のような歪さの気配を感じずにいられない。適当な設定を与えられて、体だけ大人に差し替えられて目醒めさせられたみたいに。
それでも“大人”の私は今日が休日だと分かっている。出勤日も休日もカレンダー通りで、今はお盆の長期休暇だということもきちんと把握している。
──お盆か。
一日だけ、実家に帰ることにした。
義務のように毎年帰っているはずなのに、母も父も年老いて随分小さくなったように見えた。子どもの頃は支配的だった母も、大人になった今は「カナちゃん、カナちゃん」と物分かりの良さそうな弱腰の猫なで声で話し掛けるので、私はまたしてもずれを感じて恐ろしく思った。
──この人は本当に、私のお母さんなんだろうか。
ふと、もしかするとケイちゃんという人物も本当はどこにもいないのではないかという寒々しい思いに襲われる。
私も家族もケイちゃんも。あの頃の私はあの時のまま、形を保って大人になれたのだろうか。
ちがうよ、と誰かが言った気がした。
*
「変わらないために変わっていかなきゃならないの」
とケイちゃんは言った。
思い出す。
そうだ。私たちは決して幸福な子どもではなかったんだ。
大人の私が子どもの私とケイちゃんを俯瞰している。それでいて、自分がケイちゃんと話している子どもの私でもあるようにも感じている。分離する私。
あれからすぐに雨が上がった駄菓子屋の前のベンチで、二人並んでかき氷を食べていた。
昔から、かき氷はブルーハワイと決めている。空みたいだからという理由で私たちのお気に入りだった。
「青いクリームソーダは白いほうがどんどんジュースを濁らせるでしょ。本物の空もそうでしょ。だけどブルーハワイは逆だよね。空の方が、雲を覆って染め上げるよね」
ケイちゃんはときどき恐ろしく大人びた詩的なことを言う。
「あたしはさ、もうこれ以上大人にならないようにしてる」
大人にならないように、と言ったって私たちはまだたったの九つなのに。
「なんでぇ? 」
だって──とケイちゃんは口籠ってその先を濁した。しゃくしゃくと、無言を埋めるように青い雪山みたいな氷を打ち崩す。ケイちゃんの唇の左端に出来た赤みが毎度氷と当たるのを横目で見ながら私もカップの中の氷をかき回す。赤みはブルーハワイの色とは一向に馴染まない。沁みて痛くないのかななどと思うのだけれど、ケイちゃんは表情も変えずに水色をした削り氷を一向構わず口に運び続けるのだ。
「大人になったらカナちゃんとも会えなくなるんだよ」
付け加えるようなケイちゃんの言葉だったけれど、それは嫌だな、と思った。年に数回しか会えないこのいとこに、大人になったら会えなくなるのがなぜかとても耐え難いことのように感じられた。
「バラバラになるのなんか嫌だよ」
私は堪らず涙声になる。大丈夫、とケイちゃんは私を冷静に諭した。
「だからそのために、変わらないために変わっていくようにするんだよ。普通はさ、生きてるってだけで細胞ひとつおんなじでいられないんだよ」
「じゃあどうするの」
ケイちゃんは真っ黒い目を私に寄せて、
「食ってやるんだ。ブルーハワイみたいに」
と大真面目に言った。
──ケイちゃんが引き続き切羽詰まったように語っている最中、夏の暑さに当てられたのか私の視界はぐにゃりと歪んで、暗転した。
*
私たちは、上手に完結できない。
元いたスタート地点からきれいな放物線を描いて着地できない。
どうしても上手く言語化出来ず、けれど確実にあるその“記憶の断層のずれ”としか呼びようのないものを常に抱えて生きている。誰一人として欠けてはいないのに、みんなどこへ行ってしまったのだろう。
ケイちゃんは今どこで何をしているのだろう。
結局実家での滞在は息苦しくて半日と持たなかった。
帰り道ふと思い立って、あのころ桃源郷のように思っていた佐久に寄ってみることにした。
車から降りるとそこは驚くほど変わっていなくて、胸が痛くなる。畑も川も山もひとときとして同じでないはずなのに、変わっていない。突如としてケイちゃんが言っていたのはこういう事だったのかと理解する。
同時に濁流のように思い出す。
──約束ね。
そうだ。私はあの夏、約束した。ブルーハワイを食べながら、ブルーハワイの空のもとで。
私の足はおぼつかない。夢なんだか現実なんだか分からない。それとも今までが夢だったのかも知れない。
急ぎ走ったその先で、あの駄菓子屋もやはり当時のままだった。
──約束ね。
──あたし、大人にならないように頑張るから、カナちゃんも大人にならないって約束ね。
──空のまんまでいて。雲に食われちゃ駄目だよ。
──二十歳の夏に、子どものまんまでここで待ってるから。
私は焦る。二十歳の夏から一体何年経った?
ふと駄菓子屋の前のベンチに座っている子どもが見えた。
「ケイちゃん──」
待っていた。ケイちゃんがあの日のTシャツのまま、本当に変わらずに待っていた。シャツの裾をたくし上げて、しゃっくり上げながら涙をごしごし拭いていた。
頑張ってブルーハワイのまま雲を食って変わらずにいたケイちゃんと、流されるように大人になった私。
──ああ、これで。
ケイちゃんの、ばか。
違う。
ばかなのは私。
この瞬間、全世界はひとつとなり、私は全世界に見捨てられた。
了
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