思い出づるこしかた語れ、秋の夜の月

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           Un cuore affamato d'amore crea incomprensioni.            愛に飢えたる心は誤解を生む。  あれは三年前の晩秋の頃だった。私は河口湖あたりをドライブしていた。道沿いに連なる落葉樹の夥しい紅葉の群れが西陽(にしび)に映え、まぶしくて眩暈がするほどだった。ときとして私は、「紅葉狩(もみじがり)」という能楽にある美女に化けた鬼神の出現すら想像したものだ。だが私は気持ちが晴れなかった。鬱憤晴らしをしたくて、人気(ひとけ)のない道では、私は大人げもなく制限速度を超えるスピードで車を走らせたり、ジグザグ運転なんかをした。  それというのも、私の通う茶道教室の師匠が、「茶の泡立ちは接吻の味がでないようでは駄目です」と皆の前で大声で私に指摘したからだった。私は無性に腹が立って、周囲の目を気にもせず茶道教室を抜け出したのだった。なんということだろう、私はこの歳になっても接吻の味を禄すっぽ知らない奴だと思われているのだ。要するに、お前なんかは茶道を(たしな)むほどの出来上がった男ではないと言われているようなものだった。  私は、このことを自分の人生の課題として真面目にとらえ、克服したいと思った、いや焦ったのだった。しかし、師匠にはこう言い返すべきではないのかとも思った。「茶道とは、芸術や哲学を含む日本の伝統文化の総合文化様式とも言われています。そんな崇高な総合文化様式において、茶の泡立ちに接吻の味が必要でしょうか。そもそも接吻の味とは何なんでしょうか。僕には官能的なものにしか思えません。当然、官能的なものは個人々々感覚が異なります。師匠が感じられる接吻の味と僕が感じる接吻の味とは同じではないのです。それに、接吻自体、初恋の、それが初めての接吻なら尚更、結婚して数十年経った夜毎寝屋で繰り返される接吻と同じだと言えるでしょうか。それに不倫相手との後ろめたい接吻もあることですし。こんな不貞楽な味を茶道に持ち込むとは一体どういうことなのですか」と。しかし、私には言い返す勇気はなかった。 ・・・・実は、あの師匠の感じる接吻の味が(ねた)ましかったのだ。師匠の気品のある口元、上品な唇、それを見るだけでも、私の師匠への嫉妬心は(ひど)くなっていった。師匠と接吻するその相手を一度見てみたくなったのだ。
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