空を描くこども

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   澄んだ青と、白く溶けていく雲。  私は、綺麗な空を見るたびに、思い出す。  21歳のころに出逢った、とても優しくて不思議な男の子のことを。  ―――大人になれば、何でも自由に出来ると思っていたのに。  (あー、今日も仕事行きたくないぃ···)    夏の空。  街路樹で鳴く、蝉の声。  朝8時の日差し。  緑が揺れる田んぼの、柔らかなさざめき。   「お姉さん、いつもここにいるよね」  不意に、右上から降ってきた声に、私はびくっと体を震わせた。  反射的によそ行きの顔を作ってばっと振り向き、さらに驚く。 「おはよう。お姉さん。今日もサボり?」  まだ小学一年生くらいの、小さな丸刈りの男の子。  私の右横によいしょ、と腰をおろして、フワリと笑う。 「いつも見てくれてるよね、ありがとう」  え。 「―――な、」  予想外の出来事。  こんなとき、私はつくづく適応力が無かった。 「·····ふふ、口、パクパクして、面白い顔」 「ちょっと!あ、あんた一人?! 迷子?····何、笑ってんの!お父さんとか、お母さんとかは?!誘拐されるよ!危ないよ!」  日中の長閑な田舎道だって、最近は何があるかわかったもんじゃない。  (っていうか、そのへんで親御さんが探してるかも·····。)  周囲を忙しなく見回しながら慌てる私をよそに、男の子はニコニコと笑っている。  つまり、最初から明らかな違和感があった。    私は、とある小さな地方空港で働いている。  その空港の南側には、干潟を埋め立てた公園がある。  そして、北側には、一面に大海原のように広大な田んぼが広がっている。  毎朝、その優しい緑の海を突っ切ってのびる一本道を通るのは、私の密かな楽しみだった。  エアコンの壊れた、古ぼけたピンクの中古の軽自動車。  ―――今日も、晴れてる。綺麗だなぁ。  だけど、いつもは車を止めたりしない。  たぶん、その朝、うっかり車を止めて降りてしまったのは、あまりにも心がボロボロになってしまっていたからだと、思う。  私は、道端に車を止めて、田んぼの水路脇にしゃがみこんで、ただ何にも縛られることもなく、空と、無限に広がる田んぼの海を眺めていた。     あの子に声をかけられるまでは。  ひとしきり狼狽する私に対して、男の子は言った。 「ぼくは、一人だよ。学校は、行かなくていいんだ。そのかわり、やらなきゃいけないことがあるから」 「や、やらなきゃいけないこと?」 「うん」  男の子は、そう言って、手に持っていた小さなバッグから、やおら絵の具パレットのようなものを取り出した。    ぷちゅ、と青色の絵の具チューブを絞る。  そして、バッグの中から絵筆とスポイトのようなものを取り出し、数滴だけ水を垂らすと、パレットの隅で青色を溶いた。  「ねえ。お姉さん。―――見てて」  その瞬間、男の子が、絵筆を握った手を高く空に掲げる。  私も何だかんだ、言われるがまま、その筆の先を見つめる。  青い空。    透明な空気に溶けるように浮かぶ、柔らかな雲。  ―――――ちょん···· 「―――――――あっ」  私は愕然と目を見開いていた。 「····ん? しまったあ。水つけすぎたかなぁ」  男の子は言って、慌てて絵の具をパレットに足して、また何やら色を作りなおしている。  そして。  ―――――ちょん、······ 「·····うん。やっぱ、これくらいかなぁ」  ―――――嘘。  私は息を呑んだ。  空が。  空が、·····ちょうど男の子が絵筆で触れるようにした部分で滲んで、鮮やかに色づいている。  私が信じられない気持ちでその光景を見て、それから男の子の顔を呆然と見つめ返した。  私のあんまりにも驚いた顔が可笑しくなったのか、男の子はまたフワリと笑った。 「“空を描くひと“だよ」 「·········え·····」 「ナイショだよ。誰にも言っちゃ、だめだよ」 「·······は····」 「空の始まりは、ここ。ぼくがこうして、ここで描いた景色が、ずっとずっと、世界中の色んな場所の空になる。······くるくるーって、回っていくんだ」  また空へ、絵筆をのばす。 「――これが、ぼくの、役割」  そう言って、男の子は笑う。  そして、みるみる私の目の前に、信じられないほど美しい青空が描き出されていった。
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