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青から赤へ、赤から青へ。
横断歩道の信号機が変わるたび、人は動き出し“流れ”となる。
目の前のスクランブル交差点では“流れ”が“渦”なり、全てを呑み込む。
ーーそしてその渦中に、私は今日も足を踏み入れる。
瞼を閉じて思い返す。
この渦の先にあった拓けた世界に、自らの望みを描き飛び込んだ過去を。
歩行者の信号は、青から赤に。
車道の信号は、赤から青に。
ーーあぁ、ようやく叶う。
何もいらない。何も感じたくない。無を欲し、無を求め。ーーそれを呼び込む【死】を私は望んだ。
……いや“望んでいた”という表現が、今となっては正しいのかもしれない。
『ーーあれ? 君、生きてるんだ』
人ごみに紛れ、先を目指して歩く。
“あの時”とは違う想いを胸にして、渦中に飛び込み、呑まれていく。
深層心理の奥の、奥……深淵に沈むイメージを忘れずに。
『へぇ、上手くなったね。この世界への入り方が。対応力はそこそこあるのかな?』
先程から、あの人の言葉が脳内に思い返される。
……まぁ、この世界に入る度声をかけられていれば記憶に残っていてもおかしくはないのだが。
何故があの人の言葉は、脳や胸に刻み込まれる傾向がある。ーーまるで、常にそこに存在していることを体現しているように。
《面倒くさい》
《煩い》
《逃げたい》
《憎い》
《殺したい》
《死にたい》
足を進めるたびに人ごみの喧騒が遠のき、深海のような暗い世界が広がっていく。
その世界で嘆くように、叫ぶように、唸るように、これらの言葉は音となり、耳に入る。
まるで、亡者の嘆きだと表現するのも方法としては間違っていないが、それでは意味が異なる。
何故ならこの声はーー生者の思念なのだから。
「ーーおや。いらっしゃい。毎日来るなんて、君は優等生だね。……ま、その気質が君を最初の死へと招いた原因でもあるんだけどね」
暗い世界に、更なる闇が姿を現わす。
ーーと言っても、形は人だ。私と変わらない。
現の世界に生きていれば、イケメンと呼ばれるタイプの容姿だ。
その艶のある漆黒の髪も、同色の人の視線を惹きつける相貌も。愉快そうに笑うその口元の歪な笑みさえも、人を魅了し陥落させていくのだろう。
……それは、恵まれた容姿ゆえの結末か。或いは、彼の本質か……。
「うーむ。あの日以来皆勤賞を遂げる君には何か贈り物をした方がいいのかな? ーーあっ! 女子高生なら、やっぱり甘い物とか? 最近美味しい焼き菓子を売っている店があるんだ。僕は表には出られないけど【色欲】に頼んでお茶会を開いてもらえばーー」
「ーーあの」
彼と出会うと、いつも一方的に語りかけ、こちらが相槌を打つ間も無く話が進んでいく。
それが必要な会話であるならいいが、九割は雑談に等しい。
だから今回は無理にでも割り込み、彼が発する言葉を中断させる。
「特に連絡事項がないなら、私は為すべき事をやってもいいですか? ……この場の声は、耳に入れるのが苦しい」
ここに辿り着くまでの道中で聞こえた声が、無駄話の間にも大きくなっていく。
《嫌だ! 面倒くさい!》
《煩い! 煩い! 黙れ!》
《怖い! 逃げたい! 消えたい!》
《どうして?! 憎い! 憎い! あの人が!!》
《消えろ! 消したい! 殺したい!》
《ーーアアァァ!! 死にたい! もうイヤだぁ……!!》
人が持つ負の感情。
生きていれば、誰しもが抱く気持ち。
個々では重みも形も違う思いだが、心に痛みを与える存在であるということは共通点となっている。
人ごみ。
それは多くの人が集まる場所。
そして、多くの人の感情が入り混じる場所。
この暗闇の深淵はそれらか具現化する世界ーー苦痛にまみれた世界から溢れた、哀れな世界……。
「ーーこれは、全ての解決にあらず」
……分かっている。
「救済にもならぬ、自己の欲を満たす一刀である」
偽善者にもなれない、虚無の闘い。
「……しかし、この太刀を振るう手を止める事は出来ない」
この闘いの果てに、無意味と呼ばれる結末が待っていたとしても……。
「ーー私、は……」
この命を断とうとした。
死を望み、その一歩を踏み出した先で見た世界。
【死】の先にたどり着いた、“欲望の世界”……。
「ーー『己が【欲】に従い生きる』。だよね? 【九頭欲の使徒】の末席を治める者・【無欲】」
男の言葉を耳に、私は手にした太刀を抜刀し、思念の渦に飛び込んだ……ーー。
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