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「あっ! 目が覚めた?」
身体中が痛いのに、意識は確かにあった。
瞼を開けば漆黒が似合う青年が笑いながら見下ろしていて、身体を起こそうとした私に手を貸してくれた。
「いやー。久々に現に行ったら目の前で人が自殺を図るんだもん。驚いちゃったよ。あの血塗れの世界は、いつ見ても後処理が大変そうに思うよ」
名も知らぬ彼が向けてくれる微笑みは優しく、話す口調も砕けていて親近感がある。
だが、発せられる言の葉があまりにも歪んでいて、相槌を打つよりも先に本能が彼という存在の危険性を伝えた。
……だけど、この離れられない感覚はなんなのか。それだけは、理由が分からない。
「それにしても、僕は運が良かった。他の【欲】に言われて渋々現に出たけど、まさか出会い頭に君に会えたんだから。ありがとね、あの交差点を自殺現場に選んでくれて」
青年の言っている意味が理解出来ない。
ただ、目の前の彼はどこか嬉しそうに笑い、私との出会いを喜んでいるようだった。
会ったことのない、私との出会いを……。
「あの。貴方はいったい……」
「あぁ、紹介がまだだったね。けど、僕に個体での名称はないんだ」
「えっと……つまり、名前がない、ということてすか?」
「うん。まぁ、一応“僕たち”の通り名としてーー」
そこで彼は間を置き、歪な笑みを浮かべて名乗った。
「【九頭欲の使徒】。そう名乗っているよ」
「クズヨク、の、シト……?」
聞きなれない言葉に首を傾げると、彼は何を連想したのか慌てて説明に入る。
「あっ。今九頭を、下位な人間を示す言葉の方を思い浮かべたでしょ? 違う違う。君は『九頭龍』という字を知っているかい?」
「くずりゅう……九つの頭の龍……ですよね?」
「正解! 【九頭欲】は、九つの頭を持った欲。ーーすなわちそれぞれの欲に対し、人の頭のように重要な役割を持った存在がいる集団。それが【九頭欲の使徒】だよ」
車に衝突したのが原因か。
或いは、彼の発言があまりにも現実離れしているせいか。
脳は語られる事実を理解できず、頭の中は疑問符で溢れる。
そんな私の心情を悟ったのか、彼は丁寧に説明を始めた。
「キリストの教え・【七つの大罪】を知っているかな? 人の根本にある欲望や感情を現わすものなんだけど、字の通りそれらは七つに分類されている」
「は、はぁ……」
あいにく、無神論者で日本人には聞きなれない教えにまた首が傾き、察した青年は言葉を続ける。
「【傲慢】、【嫉妬】、【憤怒】、【暴食】、【色欲】、【怠惰】、【貪欲】。これが【七つの大罪】が示すもの。まぁ、簡単に言えば人が持つ欲望の名称だね。ーーあ、これらの欲望についての詳しいことはこれから自分の目で見ていって理解してね。百聞は一見にしかず、って言うし」
……欲望を見る。
感情や気持ちなど姿なき精神を見る、というのは一体どういう意味か。
彼が言葉を紡ぐたび、頭の中は渦を巻く。
だけど、彼の言葉の通り“そうしなければならない”という気持ちが湧き上がる心は、何に突き動かされているのか。
理解出来ない感情に、戸惑うことしか出来ない。
「さて、少し話を戻そうか。僕たち【九頭欲の使徒】はこの【七つの大罪】が示す【欲】に、人が生まれながらに持つ二つの【欲】を足した、九つの【欲】で構成された集団だ」
「……もう二つの、【欲】……?」
「そう。ーーどちらも、君が身をもって感じた【欲】だよ」
そう言って儚げに笑った青年は私の頰を撫で……二つの【欲】の名称を告げた。
「一つは【無欲】。そしてもう一つはーー【死欲】。身に覚えがあるだろ?」
目を細め、耳元で囁かれた言葉に、私は何故か車が行き交う道路に飛び込んだあの瞬間を思い出す。
「あっ! 【無欲】って言っても、欲が無いことを意味する無欲じゃないよ」
耳元から唇を離した青年は、血の気の引いた私の心情など御構い無しに話を続けていく。
「苦行がある度、人はこんな行為が無ければいいと願う。痛みがある度、こんな痛み欲しくないと人は願う。ーー端的に言えば、【無】を望む【欲】。それが僕らの示す【無欲】の在り方」
「……【無】を望む……?」
「そう。そしてその【無欲】の先にあるのがーー【死欲】。【無欲】が積み重なり、それを現実世界で具現化させる為の原動力となるのが【死欲】。……君の世界では『自殺願望』として【死欲】は現れているのかな?」
淡々と彼は話すが、その言葉の重さは異常だった。
苦痛を感じ、それらから逃れたいと思い、生前の感情は狂い出した。
そして思い返す。
彼の言葉の通り、あの時自分が望んだのはーー【無】。
そしてそれを叶える為の手段として選んだのが、自殺。
道路に飛び込んだ自分の心にあったのはーー、
「……【死欲】……」
人が最期に、望む欲望。
「…フフッ。ようやく君に認識されたね。ーー初めまして、僕を望んだ生き残りさん」
目の前の青年はーー【死欲】はそう言って嬉しそうに笑った……。
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