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さよなら愛しきサリー先生
「それでね、今日は里美や凛たちと、吉祥寺の行列のできるイタリアンに行ってきたの」
電話越しの彼女は、旧友たちと会えた喜びからから、いつもより声が2オクターブくらい上擦っていた。
「へえ、あの二人は元気にしてた?」
僕は彼女から遠く離れた異国の地で、当たり障りのない返しをする。興味がないわけじゃないけれど、とても今日は彼女のテンションについていける気がしなかった。
「うん、というか元気すぎるくらい。里美はプロポーズされたらしいし、凛は就活忙しいらしいけど、でもみんなちゃんと将来のこと考えていて偉いなー、なんてさ、思っちゃうんだよね」
将来のことなんて、実はあっという間に現在になってしまう。しかもそれは自分の予期しない瞬間の方が多い。
外は大雨が降っていた。
貴方が僕にさよならを告げたのも、こんな天気の悪い日でしたね。
「へえー里美結婚するんだ、めでたいね。凛はバリバリ働くキャリアウーマンになりそうだ」
僕は二人を知っている。高校時代休み時間に喋ったり外に遊びに行くくらいには仲が良かった。そんな二人が僕の知らない成長やら変化を遂げていくのは、嬉しい反面どこか寂しいような気もした。
「で、明音はどうするの?」
「もーそういうこと言わないで、私だって真剣に考えてるんだから」
ぶつくさと言いつつも遠くの方からキーボードを叩く音が聞こえる。さしずめ履歴書でも書いているのだろう。なんだかんだ言っても僕は彼女はしっかりしていると思うし、そんなところに、僕は多分惹かれたんだろう。
「そういえば今日なんでいきなり電話かけてきたの、珍しいじゃん」
「ん?あーいや特に用事はないんだけど、明音と喋りたい気分だったさ」
「えーなにそれ、『お前の声が聞きたかったんだ』的なやつー?」
ふふっと笑う彼女を騙している気がして、僕はなんだか申し訳なくなった。
彼女と喋りたかったのは本当だ。でも本当は、こんな天気の悪い日に、7月10日という日に、部屋の中で一人で過ごしたくなかったのだ。
サリー先生、貴方と最後に抱擁を交わし、そうして貴方が僕を置いてどこかへ行ってしまったのは、ちょうど三年前でしたね。
弾こうと思っていたギターを、元置いていた場所に戻す。今日は金属バットの漫才を観る気も、THE BLUE HEARTSの「歩く花」を聴く気も、料理をする気にもならない、そんなデカダンスを楽しむ日。ただ一人ぼっちにだけは、なりたくなかった。
「そんなんじゃねえよ、ただ暇だったから話し相手が欲しかっただけさ」
精一杯の強がりは、多分、明音に対してじゃない。どこにいるかもなにをしているかもわからない、サリー先生のためだった。
サリー先生。僕はあなたをいつもこう呼んでいましたね。親しみと敬意を込めたこの名前を、初めあなたは嫌がっていたけれど、そのうちどうでもよくなって、ついには時たま僕を生徒扱いし始めましたね。
「ふーん、まあ私も暇だったからいいんだけどさ」
明音は変わった気がする。虚勢を張ることをやめて、ありもしない強さを捨てて、自分の弱さを肯定するようになった。弱いことを恥じない姿を、僕は近頃一つの「強さ」のあり方だと思うようになった。
それとも、僕の彼女に対する見方が変わっただけなのだろうか。世界は主観でできているけど、彼女とこう何年も接するうちに、僕の中の彼女がだんだんと形を変えて、僕の「自己」を新しく体系化している、そんな空想に遊ばれて。
僕は明音のことをあまり名前で呼ばない。恥ずかしい話、彼女だけは名前で呼ぶとどうもむず痒く感じるのだ。逆に彼女は僕のことを苗字で呼んでくる。前に一度実家に遊びにきた時に、「中野」と僕の苗字を呼んだ時に、母親が「私も中野なんだけど」とツッコミを入れていたっけ。
三年前だ、彼女が僕のことを名前じゃなくて苗字呼ぶようになったのは。
「ねーねー、人の話聞いてる?」
そんな僕の考え事は、彼女の不機嫌そうな声によって中断させられる。
「ごめん、ちょっと外の雨がだんだん強くなってきたから」
なんの言い訳にもならない陳述は、客観的事実を言葉にしただけだった。叩きつけるような雨と太陽の明るさを隠しきれない雲り空が、外の世界を支配していた。息を吸って、アンニュイな気持ちととともに吐き出す。でもやっと手に入れた少しばかりの平静さは、外の雨が否定しているような気がする。
勝手な解釈。
「何の説明にもなってないんだけど」
「ごめんって、でなんだっけ」
「もーちゃんと聞いてよ。最近さ、一雄と話してたんだけどさ」
もしたくさんの選択肢があってその一つに縛り付けられているのだとしたら、そこから離れなくちゃいけない。でも、もし選択肢が少なくて、それでその縛り付けられている一つが居心地のいいものだったら、その一つを選び続けるのは悪いことじゃない。
僕らの同級生である一雄が、明音にそんなことを言うのは意外だった。僕のありとあらゆる悪評を知っている彼ならば、意地でもその一つの呪縛から解放されるように促すと思っいてたからだ。
グッドバイ。
三年前にサリー先生は、新しい世界が見てみたいと言った。別々の大学、それも別々の国に進学する私たちは、全く新しい場所へと進む。だからその新しい世界で輝く新しい可能性を、見てみたいの。そう言って優しく微笑む彼女の瞳の中に、僕はもう写っていなかった。僕は彼女を縛り付ける選択肢の一つだったのだ。違う選択肢の存在を望み、そうしてその欲求を体現しようとした彼女は、僕の何倍も強く、そして勇敢だった。
でも残された僕は、それが嫌で嫌で仕方がなかった。
何がサリーだ、何が先生だ、ふざけるな、自分のわがままを勝手に押し付けないでくれ!
『そっか、そうだね、じゃあ、しょうがないね』
心の中の声は、そんな当たり障りのない言葉へと変換されて口から出てきた。
それくらいしか、輝かしい未来と希望を信じている少女にはそれくらいしか、
返す言葉がなかった。
かくして僕らは別々の道を歩んだ。彼女は意気揚々と、僕は意気消沈して。
所詮他人は他人なのだ。
「汝は我の延長線上にすぎず、我も汝の延長線上に過ぎない」
とかの有名な哲学者西田幾多郎は言っていたけれど、本当にその通りなのだ。僕があがいたところで彼女を変えることなんてできないし、僕がみている彼女は僕の中で体系化された彼女だったのだ。
サリー先生の本質を知るのは、サリー先生その人だけなのだ。
あれから僕は躍起になって連絡先から何まで全部消した。思い出のものも全部捨てて、忘れようと努めた。僕はがむしゃらになって色んなことをして、全てを忘れたつもりだった。
そうして僕は今こうして窓の外を眺めながら、彼女のことを考えている。
ああサリー先生、僕はまだ君が愛しいようです。
涙の伴わない深い悲しみは、誰に言っても分かってくれないのだろうか。
でもこのことは、一生明音に言えないだろう。
「それで?」
僕は明音の一雄との話を聞いて、彼女が今何を考えているのか知りたくなった。
『あなたは私のことを勝手に強い女の子だと決めつけて、ちゃんと私のことを見てくれなかった。だから時々君が私を『見てない』その視線が嫌で嫌でたまらなかったの』
サリー先生ではなく、これは明音に言われたことだった。お互いがお互いに連絡先を消して、でもお互いに寂しくなって、たまたま街で出くわしてそのままの流れで飲み行った時、彼女に言われた言葉を、ふと思い出した。サリー先生とは対照的な彼女の弱さをまざまざと見せつけられて、僕は薄々気づいていた独りよがりな幻想を打ち砕かれた。
本当は知っていたのかもしれない。薄々気づいていたのかもしれない。
僕は、彼女にサリー先生のような強い女の子であって欲しかった。自分勝手な気持ち悪い欲望を、そう思い込むことによって体現しようとしていた。
でも明音は、僕じゃなかった。
明音は、明音なのだ。
僕が自分の中で体系化した僕の中の「明音」は、そうして本物の彼女から一人歩きし始めたのだ。
『ごめんね』
だから、僕は謝ってけじめをつけようとした。そうして、今度から、ちゃんと彼女のことを見つめようと思ったのだ。
明音は、そんな傲慢で脆弱な僕を、許してくれているのだろうか。それは、明音のみぞ知ることである。
「私はね、あなたがこの先私にずっと引きづられ続けると思うよ、今日だって電話かけてきたのだって、そういう事でしょ?」
ああサリー先生、僕は結局女の子に振り回されるようなか弱い男なのかもしれません。彼女に僕の虚勢は通用しないということなのでしょう。
サリー先生は、僕とは反対に、僕のことをちゃんと見ていてくれたのだと思う。
「そうかもね、で、君はどうするの?」
「私?だから私は君を」
囁かれたその言葉を聞いて、僕は苦笑いする。そういうことか。僕も彼女も。少し前まで、僕は明音とのこの共依存も悪くないと思った。でも本当に僕がしたいことは、そんなことじゃない。
僕は彼女の手を取って、どこまでも連れて行ってあげたいのだ。世界の全てを見せてあげたいのだ。
彼女の弱さと、その中に潜む強さに、僕は恋い焦がれたのだと思う。
「喜んで引きづり回されるよ、先生」
僕は笑って、彼女にそう答えた。
三年前のあの別れを思い出す。
さよなら愛しきサリー先生。
僕もまた、新しい世界へと旅立っていくようです。
君を連れて、また新しい世界へと...
窓を再び見つめる。雨が止んで太陽が顔を見せても、僕の今の喜びを表すことができないような気がした。
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