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「遅くまで大変ですね」
予想通り、彼女は自分の机で仕事をしていた。ガランとした事務所に一人。小さい指がキーボードをたたいている。
話しかけた僕の姿に、彼女は本気で驚いていた。
「他に人がいるなんて、気が付きませんでした。あなたは、確か……」
「営業の桜井です。あなたが気が付かなかったのも当然です。僕は今ここに来たので」
「今?何をしに?」
彼女の目に警戒の色が浮かんだ。僕は彼女の警戒が危険に変わる前に、急いで先ほど買ったコンビニの袋を机に置いた。
「これを渡しに来たんです」
冷たいカフェオレとビターチョコ。
彼女は僕の顔とカフェオレとビターチョコを交互に見て、小首を傾げた。
「もしかして、さっきわたしの後ろを歩いていました?」
どう切り出したものかと窺っていた僕は、飛び上がった。
「気が付いていたんですか?」
彼女は微笑んだ。その微笑みは、領収書を渡した時の愛想笑いとは、全く違う微笑みだった。
「あなたのシャツが汗ばんでいるのと……」
カフェオレとビターチョコを指さす。
「これ、今まさに、わたしが欲しいものだからです」
僕は頰が熱くなるのを感じた。まさか、二十代も中頃になって、頬を赤らめることがあるとは思わなかった。
「不審なわたしを見つけたのに、声をかけなかったんですね」
彼女は興味深そうに言った。
「あの時は声をかけちゃいけないと思ったんです」
「なぜ?」
「なぜって、あなたはきっと一人になりに行ったんだろうと思ったから」
彼女は目を見開き、僕を見つめた。
そうして、笑い出した。
「ありがとうございます」
彼女は笑いながら礼を言った。
「人波浴」
「人?え?」
聞き間違えたかと戸惑う僕に、彼女はゆっくりと言った。
「人波浴って呼んでます。確かに一人になりに行ったんです。人ごみに一人で紛れていると、何者でもなくなって、気持ちがいいんです。声をかけられていたら、自分に戻っちゃうところだった」
誰にも言わないでくださいね、と彼女は仕事に戻りながら言った。
「言いません。その代わり」
僕はせいぜい脅しているように聞こえるよう言ってみたが、うまくいかなかった。
「その仕事が終わったら、食事に行きませんか?」
彼女はちらっと僕を見て、呆れたように言った。
「ばらしたら、あなたがストーカーみたいに後をつけたこともばれますよ」
その口元が微笑んでいることを、僕は見逃さなかった。
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