人波を泳ぐ

2/3
前へ
/3ページ
次へ
「男じゃないか?」  大学からの友人と飲みに行ったとき、彼女の謎の行動について話すと、友人はあっさりとそう言った。 「男?」  僕は思わず眉を顰めて、聞き返した。  そんな僕を友人は面白そうに見て、続ける。 「昼休憩に会おうと、駅で男と待ち合わせしてたんじゃないのか」  弾んだ足取り。確かに最初から思い当たらなかったのが不思議なくらい、当然の推理だ。しかし、僕はピンとこなかった。 「でも、俺が金を下ろして、コンビニに寄って帰ったら、もう席で仕事してたんだぜ。彼氏に会うのに、そんなにすぐ戻って来るかな」 「一目だけでも会いたかったとか」  僕の顔を観察しながら、友人はニヤニヤして言った。 「……」  彼女の謎を解くミステリーから、急に恋愛ドラマのようになって、僕は困惑していた。 「そんなに気になるなら、訊いてみろよ」 「なんて?」  友人は吹き出しそうになるのをこらえるような顔で言った。 「昼休憩に駅に何しに行ったんですか」  僕は呆れた顔で友人を見た。 「それじゃ、ストーカーだろ」 「だな」  友人は涼しい顔で、ビールのジョッキを傾けた。  それから僕は、彼女が外出する時を待っていた。しかしこの二週間で、彼女が外出したのは一回。それは、この間の僕と同じように、ATMに行っただけだった。それ以外は昼食を買いにも出ない。彼女はお昼には弁当を持参しているようだった。  その唯一の外出の時、僕は嬉々として、彼女の後をつけていった。自分でもそれが、気づかれるとまずい行動だと分かっていた。それでもその後ろめたさに上回る好奇心で、僕はある意味覚悟を決めて彼女の後をつけた。ばれてもいい覚悟ではない。自分がそういう行動をする覚悟だ。  それなのに、彼女は最寄りのATMから出てくると、躊躇することなく社に戻っていった。  もちろん弾んだ足取りなど見られない。いつもの彼女の秩序ある足取りだ。  僕は勇んだ分、大いに脱力した。僕の覚悟はなんだったのか。  それから何事もなく日々が過ぎ、あれは幻だったのかと思い始めた。僕自身も毎月の締めが近づいてきて、のん気に彼女を観察するわけにはいかなくなったのもある。  そんな中、その時は突然やって来た。 「あれ?」  その日は取引先の部長の長話に捕まって、社に帰るのが遅くなった。車をとめ、ビルを見上げると、ほとんど明かりは消えていた。それはそうだ。もう九時をまわっている。  ため息をつき、裏にある通用口へ向かおうとすると、そこからすごい勢いで出てきた人がいた。  彼女だ。  彼女は僕に気が付かなかったようだ。というか、恐らく周りは見えていなかっただろう。ただ、前を向いて、猛然と歩いていく。暗くて顔は見えなかったが、その鬼気迫る雰囲気は、表情がみえなくても十分に感じられた。  少し書類を片付けて帰ろうと思ったのだが……迷ったのは一瞬だった。僕は彼女の後をついて行った。  彼女は先日見かけたときと同じく、地下鉄の駅に下りていった。  やはり男なのだろうか?  しかし彼女の足取りは、弾んではいなかった。重たいブーツでも履いているかのように、ドスドスと歩いていく。  彼女は地下鉄に乗った。僕も何食わぬ顔で乗った。やはり彼女は気づく様子もなく、宙の一点を睨んでいる。  やっと明るいところで彼女の顔を見ることが出来たが、彼女の眉間にしわが寄りそうなほど、険しい顔をしていた。  三駅目で彼女が降りたので、僕も気づかれないように人に紛れて降りた。難しいことではなかった。降りる人が多かったからだ。  夜の繁華街。この時間でも、いや、この時間だからこそ、人に溢れている。  駅を出て、彼女は歩き出した。  僕も慌てて後を追う。  店を探している様子もない。スマホを見るでもない。  ただ、人の間を縫うように、彼女は颯爽と歩いていく。  次第に、彼女の足取りが軽くなってきたような気がした。ドスドスからスタスタ、そして弾むようにポンポンポンと。  こんな人ごみの中を、彼女は人にぶつかることもなく、スピードが落ちることもなく、泳ぐように歩いていく。  気持ちよさそうだな。  後ろから汗だくになってついて行きながら、僕は歩く彼女の後ろ姿に見とれていた。  でも声はかけなかった。今、声をかけてはいけないと思ったからだ。  やがて彼女は満足したのか、駅に戻り、電車に乗った。彼女の鬼気はすっかりなくなり、穏やかな空気が流れていた。  彼女が降りたのは、再びわが社の最寄り駅だった。僕は駅を出ると、少し考えて、コンビニに寄った。
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加