人波を泳ぐ

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 彼女には奇妙な趣味がある。それを趣味と言っていいのであればだけど。  昼休憩の三十分、残業が続いた後の夜、彼女は街を徘徊する。 それも散歩に適した道などではない。  人でごったがえした大通り。  歩道からはみ出すほどの人で膨れ上がった交差点。  帰宅を急ぐ人であふれる地下鉄の通路。  お店を覗くわけでもなく、電車に乗るわけでもなく、歩く歩く歩く。  業務と業務の間の一時間の昼休み。しかし実際は一時間取れることの方が少ない。切りのいいところまで仕上げてから休憩しようと思うし、取引先に合わせて、早めに休憩を切り上げることだって普通だ。  その日も何のかんので休憩になかなか入れず、それでもどうしても手持ちがなくて、ATMに行かなくてはいけなかった。お昼はコンビニで済ませようとあきらめて、ぼくは最寄り駅にあるATMに急いだ。昼間は案外そこがすいているのだ。  それでも何人かが並んでいた。イライラしながらその列に並ぶ。皆一様にイライラしているように見えた。ほとんどが勤め人のようだったが、その間に挟まれている主婦らしき人を見つけると、僕は内心舌打ちをした。  自分でも理不尽だと思いながらも、主婦なら今じゃなくてもいいんじゃないかと、イライラが募っていく。  その時、僕の視界を知っている人が通り過ぎたような気がした。  何気なしに首をそちらに向ける。  初めは何に気が付いたのかも分からなかった。 数秒間ぼんやりして、やっと自分の会社の制服を着た女子社員を見つけた。 颯爽と地下鉄の駅の構内へ消えていった。 昼時の移動の為か、この時間の駅の連絡通路は、ラッシュ時ほどではないが、そこそこ混んでいる。 その人ごみの中へ、彼女は嬉々として吸い込まれていったような気がした。顔が見えたわけではないが、足取りが弾んでいるように見えたのだ。 どこに行くんだろう。 彼女は経理だ。領収書をよく持っていくので、その姿に何となく見覚えがあった。しかし電車に乗るような業務はないだろう。 彼女の消えた先を見ていると、後ろから舌打ちされた。我に返ると、いつのまにか自分の番になっていた。僕は慌てて、つんのめるようにATMに飛び込んだ。  コンビニに寄って会社に戻ると、経理の席にはもう彼女が戻っていた。いつもと変わらない涼しい顔で、パソコンに向かっている。  やはり、電車に乗ってどこかに行ったのではないようだ。  ではなにを?  うちの社はそれほど大きな会社ではない。かといって零細企業でもない。ある程度必要とされている、安定した中小企業だ。  経理の彼女の机は、営業の僕と通りを挟んだ向こう岸と言ったところ。姿は見えるが、用事がないと行くことはない場所だ。  肩書はないが、新人でもない彼女は、いつもたくさんの書類を抱え、冷静にさばいている印象だった。それでいて、分からないことがあって聞きに来た他課の質問には、丁寧に答えていた。  彼女はいつでも穏やかで冷静で、秩序だっていた。それは違う言い方をすれば、面白みがなく、華のない女だった。  その彼女が謎の行動をした。  いったい、何をしていたのだろう。  それから僕は、彼女を目の端で気にするようになった。  パソコンを打つ真剣な横顔が綺麗なこと。  呼ばれると一瞬、小首を傾げてから、振り向くこと。  相手の顔をきちんと見て話すこと。  領収書を持っていったときは、受け取ったその手が意外に小さくてかわいいことも発見した。  いつでも彼女は不機嫌な顔をせず、穏やかな顔をしていた。  しかし、あの地下鉄に消えていった時のような、弾んだところを見ることは出来なかった。
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