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今日居残り練習をするのは1年の筧だ。北川はメトロノームの速さを楽譜通りに合わせ、ピアノで歌い出しのシの音を取る。
「3、はい!」
筧は北川の声に合わせて楽曲の冒頭部分を歌い始める。筧の声をじっくりと聴き、北川は8小節歌ったところでパンパンと2回手を叩き、演奏を止めさせた。
「3小節目の八分音符の部分が少し駆け足になってるから、走りすぎないように。それと6小節目の二分音符の部分。最初は合ってるんだけど徐々に音が下がってきてるから、腹筋に力を入れて集中力を高めてやってみて」
「はい」
「じゃあもう一回、頭から」
再びメトロノームのカチカチという音が鳴り響き、筧の声が響く。
「子音をもっとはっきり発音して。『ひきつれた』が『いきつれた』に聞こえるよ」
「デクレッシェンドの部分はもっと集中して。基本の発声を崩さないで」
北川は一音一音の正確さ、フレーズごとのつながり、音の強弱など、細かいチェックを続けていく。楽譜の最後に辿り着いたときには時計はもうすでに8時を大きく回っていた。
「よし。じゃあ今日はこれで終わり!」
「ありがとうございました」
筧は深々と頭を下げる。北川はピアノの鍵盤の蓋を閉じて譜面台の楽譜を手に取った。
「あの!」
筧がふと声を上げる。
「どうした?」
「……いえ、何でもないです」
「言ってみ?」
北川が優しい顔で水を向ける。
「北川先輩って、部活辞めようと思ったこと、あります?」
北川の目もとがピクリと動いた。
「どうして?」
「いやその……」
「言ってごらん?」
「北川先輩にだから言いますけど……辞めたいと、思ってるんです」
筧の重い口から一語一句、ゆっくりと言葉が絞り出された。
「そうか……」
北川はそうつぶやく。虫の鳴く声だけが音楽室の中に響く。
「他にやりたいことがあるのか?」
北川はそう尋ねた。
「え、まぁ、受験勉強もありますし」
「正直だな。目もとが」
北川が穏やかにそう告げると、筧はうつむいた。
「他のみんなは、定期演奏会に向けて熱を入れて頑張っていますけど、僕にはどうしても熱くなれないんです。それに……」
「筧が言いたいことは、分かるよ。オフレコだけどな」
北川の穏やかな顔色は変わらない。
「でもな、辞めても別に構わないんじゃないか?と僕の口からは軽々しく言えないんだ。すまん」
北川は頭を下げる。
「北川先輩は今のこの部活、どう思ってるんですか?辞めたいと思ったことはありませんか?」
筧はそう北川に問いかける。北川は喉の奥から湧き上がってくる言葉を噛み砕きながら
「辞めたいと思うか?じゃない。辞めてはいけないんだよ。パートリーダーという立場もあるしな」
そう告げると、足早に筧のもとを立ち去っていった。
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