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仕方がないこと
「最後のデクレッシェンド、緊張感を切らさないように小さくして。じゃあ今日はこれで終わり!」
北川がそう告げると、
「ありがとうございました!」
1年生の津村はそう頭を下げ、かばんを取りに戻っていった。津村の姿を見送りながら北川は時計に目をやる。時刻はすでに午後8時を回っていた。
ーーふぅ。
北川はため息をつき、ポケットに入れていたスマートフォンのロックを解除する。すると、1件の通知がそこにあった。新着のメッセージだ。
「ゆきのり君、今日部活終わったらいつもの公園で、会ってくれない?何時でもいいから」
メッセージの送り主は朝霧桜。中学を卒業したときに桜から告白され、付き合い始めた。もう1年3ヶ月になるのだが、最近は部活の練習が忙しすぎて、まともに会うことができていない。
「ごめん。今日も今まで練習だったんだ。メッセージじゃダメ?」
北川は桜にメッセージを送る。すると既読がすぐにつき、着信音が鳴った。
「ううん。会って話したいことなの」
「でも、もう夜も遅いし」
「ゆきのり君いつも遅いじゃん。ね、もうこんなお願いするの、今日だけだから」
このメッセージの直後、続けざまに両手のひらを合わせた「お願いっ!」のスタンプが送られてくる。
「仕方ないな。わかった。今から15分後に桜木公園でいい?」
「うん」
「じゃあまた後で」
北川はそう返すとグランドピアノの鍵盤の蓋を閉じ、譜面台の楽譜を手に取った。楽譜にはメモ書きや印などがびっしりと書き込まれており、各ページの端っこは手垢にまみれている。
北川は寒椿高校の男声合唱部セカンドテノールパートのリーダー。20人以上のメンバーの指導や出席管理などを行う役職だ。男声合唱部は寒椿高校にとって看板部活動。全国大会出場は40回連続を誇り、現在8年連続で金賞を受賞している。今男声合唱部は毎年夏休みに開催される定期演奏会の追い込み時期に差し掛かっている。全体での練習終了が夜7時、その後全体ミーティング、パートミーティングが終わると7時半。その後日替わりで部員1人1人に対する個別指導がある。個別指導を全て管理しないといけない北川にとって、練習の終了時刻は夜8時すぎがデフォルトだ。当然土日も祝日も、休みはない。
「ふぅ……」
北川はため息をつくとリュックを背負って自転車置き場へと向かう。曇天の夜空の下、北川は重いペダルを漕ぎ始めた。
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