《三》懇願

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     *  懐かしい呼称が口をついてしまいました。  すでに私から視線を外して扉を向いていた夫の目が、動揺のまま私へ戻されるその仕種を眺めながら、心臓がぞわぞわと忙しなく騒ぎ始めます。  それは、妹――(ゆき)()ならば絶対に口にしない呼び方。  聡い夫のことですから、今の私のひと言ですべてを理解してしまったでしょう。自分の妻が雪音ではなく、かつての教え子である(あま)()なのだと。 「……え?」  夫の掠れた声が耳に届き、自嘲の笑みが浮かびそうになりました。なにも今明かす必要はなかったのでは、と思ったからです。  私の身体が傷んでいると判明し、原因はあなただと医師に責められた。夫は今、多少なりとも衝撃を受けているはずで、その機を狙ったかのようにというのは……私も相当に狡賢い人間なのかもしれません。  けれど、限界でした。  今明かさなければ、もう生涯伝えることはできない。そんな気もしていました。  どんな言い訳を用意しようとも、結局、私は両親とともにこの人とこの人の家族を騙した形になるのです。双方の怒りに触れ、離縁を言い渡される可能性もあるでしょう。むしろ、これまでそうされなかったことのほうが不思議なほど。  それでも、これ以上は耐えられない。  諦めが過ぎり、無意識のうちに頬を涙が伝い落ちていきます。  私がそれに気づくよりもおそらくは先、節くれ立った長い指が頬を掠めました。涙が通った筋を辿るようにそこをなぞられ、驚いて目を見開きます。 「っ、雪音……」  焦った声で夫が口にしたのは、今の私の名前でした。  この人に伝えている名前。この人が婚姻を結んだ女の名前。初めて呼ばれた名前。  ……違うのです。私の名は、それではない。  わずかに首を横に振ると、両の(まなじり)から涙が零れ落ちました。それは私の震える手の甲を濡らし、肌の上をさらに滑り落ち、掛布にしみを作ります。  思ったよりも、内心が顔に表れていたのかもしれません。  左右に泳いでばかりの夫の視線が恐ろしくなり、私は、頬をなぞる指をそこに閉じ込めるようにして自分の手を添えました。その所作になおさら驚いたのか、夫の顔にはより深い混乱が覗き、けれど止めることはもうできない。 「違います。私は雪音ではありません」 「……え?」 「先生だって、もうお気づきなのでは? 私は雪音ではなく雨音なのです。以前、私をそうお呼びになったこともあったではないですか」  私の手と頬に挟まれた長い指が、途端にびくりと震えました。  それが後悔によるものなのか、それとも他に思うところがあるのか――その答えを見出すよりも前、そして夫が口を開くよりも前に、私は強引に言葉を続けます。 「雪音は、先生との婚約の話がまとまってすぐの頃、他の男と駆け落ちしました。困った両親が、妹と同じ顔の私に、身代わりになれと命じただけ」 「……あ……」 「断っても良かった。そのくらい、両親だって想像できていたはずなんです。でも私、断りませんでした。先生のことをお慕いしていたから」  彼はなにも言いません。  ただ呆然と私の話を聞いていて、なんだか腹立たしくなってきて、そんな自分をなんて身勝手な女だろうと思って、それでも口は止まりません。 「先生が妹に婚約を申し込んだと聞いて、……つらくて。けど、私は妹みたいに明るい性格でもなければ、年頃の女らしさもない地味な娘です。仕方がないと諦めるつもりでおりました」  溢れる涙の雫は、先ほどよりも明らかに量が増えていました。  声が震え、指も震え、それでもこの一年で蓄積し続けた本心は、ようやくの解放に晒されて喜び勇んで暴れるのみ。 「嘘でもいい、先生と結婚できるならと思いました。けれど、先生は名前を呼んでもくれなければ、私を見てもくれない。熱心に婚約を申し込んだと聞いていたのに……もしかしたら、私が雪音ではないと勘づかれてしまっているのではと、怖くて仕方なくて」  一度外れた箍は、簡単には元に戻りません。  想い続けてきた目の前の人を置き去りにしたきり、好き勝手に暴れ回っては、私自身をも蹂躙してしまう。 「あの夜に〝雨音〟と呼ばれて、やっぱり知られているのだと思いました。それなのに、いつまで経っても先生は離縁を切り出してこないし、むしろ夜ごと戯れを繰り返してばかりで……ずっと先生を騙してきたのに、どうしてそんなことを」  徐々に嗚咽が交ざっていく私の声は、大層聞き取りにくかったに違いありません。  不意に頬から指を剥がされ、その少々強引な仕種を肌で感じた私は、瞬く間に絶望に心を支配されてしまいました。しかし、離れた手のひらが肩に触れ、驚いた私は俯けていた顔をそっと上げます。  身を屈めた夫の首筋が覗き見え、それに気を取られているうち、唇を奪われてしまっていました。 「ッ、ん……」  わざと音を立てて吸いつかれ、くぐもった声が思わず鼻から抜けます。肩に触れていた手は、いつの間にか両頬へ動いてそこを包み込んでいて、私には逃げ場などわずかもありません。  触れては離れ、それを何度も繰り返すやわらかな口づけに、私はしばし涙の存在を忘れておりました。  すぐに息が上がり、眉を寄せてしまうと、重なっていた唇はそれを見計らったかのように離れ、それでも触れ合っているのとほとんど距離は変わりません。近すぎるゆえ、夫が口を開いたときには緩やかな吐息が唇に届き、私はつい目を泳がせてしまいます。 「……もう黙ってください」  夫婦として過ごしてきたこれまでの期間、一度も聞いたことがないほどに低く掠れた拒絶が耳へ届き、茹で上がっていた頭がすっと冷えていきます。  すみません、と小さく呟いた私の謝罪に、しかし彼は首を横に振るだけ。  その仕種の途中に再び唇が触れ合いそうになり、心許ない声が零れ落ちそうになるところを必死に抑え込んだそのとき、背徳的なまでに近い場所から聞こえてきた言葉に、私は耳を疑いました。 「違うんだ。僕は……僕が愛しているのは、君なんです。雨音」  涙の痕を指でなぞられ、同じ場所を、今度は夫の唇が這います。  それはゆっくりと私の唇を目指し、またそこが触れ合い……与えられるぬくもりに私の頭は混乱を極めるばかりで、もう声も出せません。  まるで本当に愛おしいものに触れてでもいるかのような感触に、途端になにもかもが分からなくなってしまいそうで、ただただ不安でなりませんでした。 「本当に? 君は、本当に雨音なんですね?」 「……は、はい」  震える声でなんとか答えて、それきりでした。  交わす言葉もなく、触れるだけだった唇をそっと舌先でなぞられ、口づけはより深くなっていきます。  鼻から抜ける私の声に聞き入る夫は、満足そうに目を細め、見ているこちらのほうが恥ずかしくなってくるほど。夜伽のときに、堪えきれず声を零してしまう私を見つめているときと同じ目に見え、胸が甘く疼きました。ごく近くから艶めいた視線を向けられ、堪らず強く目を瞑ると、口づけはさらに激しさを増していきます。  ……いえ、激しくはないのです。急かされることも掻き乱されることもなく、だというのにひどく執拗で、身体の中に直に愛を囁かれているかのよう。  くらりと眩暈がして、私は咄嗟に夫の腕にしがみつきました。そんな私を、夫は苦々しさを感じさせる笑みを浮かべながら見つめています。 「ずっとこうしたかった。君は、雨音さんではないと思っていたから」 「……え?」 「机の本の重ね方が少しずつずれていて、それ、雨音さんの癖と同じでした。そう思ったら、君が雨音さんにしか見えなくなった」 「あ……先生」 「結婚だって、本当は君に申し込んだつもりだったんです。まだ君が学生だった頃、図書室で本を読む君から目が離せなかった。それなのに、君の両親が急いでいたのは君のではなく、君の妹御の婚約だった。それを知ったときの僕の気持ちが分かりますか」  触れる指が小刻みに震えている気がして、息を呑みました。  苦笑いは切なげな表情に変わり、痛々しいその顔から目が離せなくなって、それでもなんの言葉も出てきません。 「本の癖を見て、この人は雨音さんなんだと思い込んで、あの日、君をそう呼んでしまった。心のどこかで期待していたんだ、けど君は傷ついた顔をしていた。やっぱり君は雪音さんなんだと思って、でも」 「……あ……」 「分からなくなったんだ。雨音さんでも雪音さんでも、君がどちらであったとしても、僕の傍にいてくれるなら、もうそれでいいんじゃないかって」  紡げば紡ぐほど、声は震えていくようでした。顔を覗き込むと、彼の瞼からひと粒の雫が零れ落ちるさまが見えました。  大人の男性が涙を流す姿など、目にするのは初めてでした。顔を歪めることもなく静かに涙を落とすその人が、どうしてか、この上なく儚く見えました。  堪らず、涙が伝った痕を手のひらで覆いました。  先刻までとは真逆のやり取りを交わしていることにもすぐには思い至れず、夢中になって彼の冷えた頬に唇を寄せます。  縋るような声が耳を掠めたのは、それとほぼ同時でした。 「どこにも行かないで。こんなに傷つけて、痛めつけて、何度も君にひどいことをして、……それでも僕は、君に見限られてしまいたくない」  ――なにをするにも君のことばかりで、僕の頭はとっくにおかしくなっているんだ。  ……なんて声。  そんな声で懇願されて、それで私があなたを突き放すと、まさか本気で不安に思っているのでしょうか。  私は、私こそが見限られるものと覚悟していた身です。だというのに、あなたがそれほどまでに私に縋って、どうするつもりなのですか。 「……私は」  私よりもいくつも年上のあなたが、親とはぐれた幼子のように見える。  なりふり構わず愛を乞うあなたを、こんなにも愛おしく思ってしまう。 「私はどこにも行きません。だから、私の唇に……もう一度触れてくださいますか」 「……え?」 「先生の唇に、私、ずっと触れてみたいと思っていたのです。だから、」  伝えたかった言葉のすべては、最後までは音になってくれませんでした。  性急に私の唇を塞いだあなたへ、私の声は届いたでしょうか。我を忘れて私に腕を伸ばし、蕩けるくらいに甘い口づけを繰り返すあなたの、心の奥にまできちんと伝わったでしょうか。  深まっていく口づけに溺れているのは、私だけではないようでした。  脳髄まで侵されていくかのような、恐ろしくも甘美な蜜の味。それが錯覚だと分かっていても、私はただ与えられるそれへ無心で舌を伸ばし、応え続けます。 「……愛してる……」  重なる唇の隙間から零された言葉に応えるため、広い背に腕を巻きつけます。  触れ合う肌が熱くて、そこから身体ごと溶けてしまいそうで、この人も同じことを思ってくれていたらとそればかりになって――そんなふうに思った時点で、私とてとうに狂ってしまっているのかもしれませんでした。  触れ合う唇も手のひらも、すべて溶けて混ざり合ってしまえばいい。  私とあなたの境界線をほどいて、ひとつのものになってしまえればいい。  そうすれば、私がどれほどあなたに焦がれ、壊れてしまっているのか、あなたにきちんと分かってもらえる気がするのです。  そうやって、あなたに私のすべてを焼きつけられればいいと、あなたの愛に飢えていた私は心の底から願ってしまうのです。 〈了〉
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