《三》懇願

2/4
733人が本棚に入れています
本棚に追加
/12ページ
     * 『奥様が倒れてしまわれました。お医者様に診てもらい、今はお休みになっていらっしゃいます』  下女からその連絡が入ったのは、昼を過ぎた頃だった。  このところ体調を崩しがちだと、下女を通じて聞いていたが、本人に問うても大丈夫だの一点張り。用心深く様子を見てやってほしいと頼んだとき、下女はなんとも表現しにくい表情をしていた。  なにを言いたいのか、あっさり見当がついた。それはそうだろう、ほぼ毎晩貪り尽くし、妻の身体も心も疲弊させているのは僕自身なのだから。  通いの下女がどこまで勘づいているかは知らないが、終日寝台に臥せったままということも珍しくない近頃の彼女を見て、下女なりに思うところがあるのかもしれなかった。  物言いたげな視線を振りきって職場へ向かったのは、今朝の話だ。  それが、まさか、こんな。  幸い、午後からの授業はなかった。事情を説明して早々に仕事を切り上げ、自宅へ駆け戻った。  玄関で待ち構えていた下女の言葉には耳を貸さず、まっすぐ寝室へ向かう。勢いに任せて扉を開くと、寝台へ遠慮がちに腰かけていた妻が、僕の姿を見て息を呑んだ。  妻に寄り添うように、女性の医師が椅子に腰かけている。  一瞬、僕を見る医師の目が鋭くなった気がしたが、それどころではなかった。そんなことより、妻の体調のほうが遥かに気懸かりだった。 「も、申し訳ありません。その、お仕事は」 「構いません。それよりも体調は?」 「……あ、その……」  いつにも増して歯切れの悪い物言いに、つい眉が寄る。  すると、医師がおもむろに立ち上がった。そろそろ休むようにと妻へ告げ、医師は僕の傍へ歩み寄ってきた。 「お時間は取らせません。少々よろしいですか、ご主人」  そう口にした医師は、僕の答えを待ちもせず、部屋の外へ出ていく。  露骨な態度に不審なものを感じつつも、なにも言わず後を追った。そして告げられた話――廊下で立ったまま切り出されたそれに、ようやく僕は、医師の不穏とも取れる態度の正体に思い至ったのだった。  下女はためらった。だが、医師は容赦なかった。  子を成すための器官が傷ついているのです――表情ひとつ変えず口にした医師の言葉に、知らず頬が引きつった。  抑揚のない声と物言いだった。しかしそのほうが、声を荒らげて責められるよりも遥かに堪えた。視線にのみ咎めるような気配を宿して僕を一瞥した医師は、溜息交じりに続けた。 『このままでは、お子を授かるにも障りが』 『しばらくの間はどうか安静に』  医師はそう締めくくり、今日のところはこれで、とその場を後にしていった。  ……疲労感と罪悪感、双方に身を焼かれる思いで寝室へ戻った。  謝罪のためと言えば聞こえは良いだろうが、要は顔が見たかっただけだ。とはいえ、室内に戻った頃には、妻は眠りに落ちた後だった。  静かな寝息が鼓膜を打ち、やるせなさに包まれる。  随分前から痛みを感じていたはずです、と医師は言った。どうしてもっと早く教えてくれなかったのかと、そんな糾弾が脳裏を巡っては、またそうやって妻のせいにしたがる自分の醜さに吐き気がした。  触れた頬は冷たく、これきり儚くなってしまうのではないかと、根拠のない恐怖に襲われる。身の竦むような不穏な想像を振りきりながら身を屈め、目を閉じる。  そして、青褪めた妻の唇に、自分のそれをゆっくりと重ね合わせた。  一年以上も夫婦として暮らしてきたにもかかわらず、口づけを交わすのはこれが初めてだった。  笑う気にもなれない。ここまで憔悴させてしまうほど肌を重ねているというのに、口づけひとつ交わしたことがなかったなど。  避けてはいた。そんなことをすれば歯止めが利かなくなる気がしていた。だが、それがどれほど安定を欠いた行為だったか、今このときになって思い知る。  妻は目を覚まさない。なにも知らず、静かに胸を上下させて眠っている。  自嘲に口元が歪んだ。屈めていた身体を起こし、なにごともなかったかのように踵を返して扉へ向かおうとした、そのときだった。 「……先生」  か細い声が不意に耳を掠め、僕は弾かれたように声の主を振り返った。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!