《二》崩落

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 完全な別人のほうが遥かにましだった。  彼女と同じ顔、同じ声、だが彼女ではない。そんな人が、妻として生涯僕の傍に寄り添っていく。地獄を選んでしまったと、心底そう思った。  初夜には、新妻に対する所作とは思えぬほどぞんざいに肌を暴いた。  大腿を伝う破瓜の証を目にしたときすら感慨は湧かなかった。彼女でなければ意味がない、なのに似た女の純潔を奪ったところでどうなる。そうとしか思えなかった。  それからというもの、妻とは極力顔を合わせなかった。視線を向けないよう強く意識し、名も呼ばなかった。つい彼女の名を呼んでしまいそうだったからだ。  妻である女性を傷つけている自覚は、さすがにあった。  夜中になるまで職場で時間を潰す日が増え、その日のうちに自宅に帰ることはほとんどなかった。どうしてこんな扱いを、と責められてしまうのではと考えては頭を抱えていた。  ある日、通いの下女から『気になることがある』と切り出された。  結婚前には自宅に数名入っていた下女だったが、結婚後にはひとりだけを残し、他の全員を実家へ戻していた。  残したのは、最も歴の長い、老いたひとりだ。無駄口を叩かず、与えられた仕事に黙々と励むさまを見極めてその者を残した。 『部屋に閉じこもって、本ばかり読み耽っていらっしゃるのです』 『身に着ける服にも化粧にも、話に聞いていたほどにはご興味を示さぬのです』  何度も言い淀み、またところどころでためらいを覗かせながら下女が伝えてきた日中の妻の様子に、眉が寄った。  おかしい。僕が結婚した女性は、天真爛漫な性格をしていると聞いていた。加えて、見目の良いきらびやかなものごとを――尖った言い方をするなら派手なことを好む気質だとも聞いていたのだが。  僕が取っている行動は、確かに彼女の自尊心を傷つけるものに違いなかった。  初夜にひどい抱き方をして以降、触れるどころか目も合わせずに今日まで過ごしてしまっている。けれど、なにかが引っかかる。  まさか……だが、そんな。  そんな、わけは。  その夜、頭を掻き回してやまない混乱を振りきるように、同僚と酒を酌み交わしてから自宅へ帰った。久しぶりに足を踏み入れた寝室で目にしたのは、長椅子にもたれて本を手にする君の姿だった。  驚いた顔で僕を迎えてくれた君を、半ば襲うようにして掻き抱いた。  苦痛に顔を歪め、涙を零して僕を受け入れる君へ、それだけでも十分非難に値するだろうに、僕はさらなる暴挙に打って出た。  あろうことか、君の名ではなく彼女の名を口にしたのだ。  少しも期待していなかったと言ったら嘘になる。  長椅子の前に置かれた脇机、その上に煩雑に積み上げられた本の山が、僕の期待をさらに濃くしてしまっていた。学生時代、彼女は自分の机に似たような本の積み重ね方をしていた。わずかずつ背表紙をずらして上に重ねられているそれを見て、すぐさま頭が沸いて、だが。  顔を青くした君は、びくりと全身を強張らせた。  深い絶望の滲んだ顔。それは一瞬で僕を絡め取り、奈落へ叩き落とした。  やはり違うのだ。当然だ。この人は彼女ではない、彼女の妹だ。  天真爛漫だとか派手好きだとか、そのような話は、結局のところ噂で聞いたものでしかない。他人が見た他人の評価が現実と(かい)()していたとして、それを鵜呑みにしても誰も責任など負ってくれはしない。  この人は、本当はこういう人だった。  僕が傷つけてしまった。それだけの話だ。  どうしてだ。さっきの君の顔が、頭から離れない。  脳裏に焼きついた、彼女と同じ君の顔。苦痛と絶望に歪んだ表情が、一度沈んだ奈落からの浮上を僕に許してはくれない。  ……彼女と、同じ顔?  彼女と同じ……いや、違う。あの子の顔はどんなだった?  おかしい。思い出せない。あれほど焦がれていた人なのに。  僕は、あの子のなにを知っているのだった?  だいたい、今貪るように掻き抱いているこの人のことも、なにひとつ知らないままじゃないか。この人を苦しめ続けているだけでしかないじゃないか。  どうしたらいいのか分からない。  僕が愛しているのは誰だった? いや、そもそも僕は、生涯誰のことも愛するつもりなどなかったはずではなかったか?  だが、それならどうしてだ。この人が僕を見限って離縁すると言い出したら、もう生きていけなくなるかもしれないなんて、どうしてそんなふうに思ってしまうんだ。  駄目だ。  君は僕の妻だ、僕の傍を離れることは絶対に許さない。  ……分からない。君が、本当は誰なのか。  僕の知る彼女なのか、その妹なのか。もしやどちらでもないのではと、そういう気さえしてしまう。  いや、どちらだったとしても別に構わないのではないか。僕が愛しているのは、傍にいてほしいと望んでいるのは、今僕の腕の中にいるこの人だけだ。  早く子を宿させてしまえばいい。  そうやって逃げ場を奪い、さっさと繋ぎ留めてしまえば。  ただそれだけの話なのでは、ないのか。  臆病な僕は、今日も君の名を呼ぶこともないまま君を貪る。  なにもかもをわざと不明瞭な形に留めたきり、それに気づかないふりをして、君を僕の隣に縛り続ける。  君も君だ、なぜなにも訊かない? なぜ拒みもせずに僕を受け入れてしまう?  君を君の姉の名で呼んだあの日以降、身体の関係だけ深めては満足して……そんなことを延々と繰り返している男を、どうして責めようともしないんだ。今もなお、こうして傷つけてばかりだというのに。  我ながらひどい話だと思う。結局、僕はこうやって、自分の落ち度を棚に上げては君を責めてばかり。  そうすることでなんとか自分を保っている。こんなにも身勝手な僕に、君が心を開いてくれる日など訪れるわけがない。  嫌になるほどはっきりそう理解できていて、それでももう、僕にはできないのです。  君が本当は誰なのか確かめるなんて、そんな恐ろしい選択は、僕には。
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