第三十四話 東と羊~その3

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第三十四話 東と羊~その3

東京都港区にあるアパート。 殺風景(さっぷうけい)な我が賃貸の自宅だ。 少し酔っていた俺は、帰るなりシャワーを浴びた。 それから布団を()いて寝っ転がる。 やることもないので、置いてあった本を手に取る。 カナダの作家マーガレット·アトウッドの『侍女の物語』だ。 女性が子供を産む道具として扱われる世界を描くディストピア小説。 SFは苦手なのだが、前から人に勧められていたので、図書館で偶然見つけたのでつい借りてきてしまった。 この『侍女の物語』で描かれる世界は、それほど近未来ではなく、ある日アメリカ合衆国を思わせる国でクーデターが起こって、社会の仕組みが大きく変わってしまったという設定。 そして衝撃的な内容のもう一つの点は、この社会が完全に男性優位の社会であることだ。 そのせいか、女性に対してはかなり特殊な扱いがされている。 様々な要因があって、子供が極めて少なくなっている社会なので、女性は社会の管理下にあり、自由な行動は許されず、特権階級の男の子供を産むための道具としてのみその存在が許されている状況だ。 夫と幼い娘と引き裂かれ、子供を産むためだけにある司令官の”侍女”となった主人公の視点から語られていく物語。 ディストピアものであることに目新しさはなかったが、女性が(しいた)げられる立場にあるというところが新しさを感じさせた。 SFというのは元々啓蒙的なところがあるから、俺が知らないだけで意外とスタンダードなのかもしれないが。 読んでいて途中でやめてしまっていた本だったが、海と話したせいなのか、また読み始めた。 だがしばらくして、酒が入っているせいか内容が入ってきづらかったので、結局また閉じてしまった。 そして電気を消した真っ暗な部屋で一人考える。 おそらくだが、彼女――佐藤海は相当な覚悟があって今の生活をしているのではないか。 女性は男性よりも、結婚していないことに世間の評価が厳しいイメージがある。 それに彼女はもう三十を超えているし、未だにフリーターで収入は不安定だ。 このまま独身でいるというのは、将来がかなり不安だろう(それは男性も同じだが)。 それでも彼女は、自分が好きなことを選んだ。 いつもはっきりとは言わないが、過去に頼れる男がいたことはわかる。 よく彼女の話に出て来る、背が高く、体は引き()まっていて、無表情で能面のような顔の男性のことだ。 その男性は、俺のよく知っていた人のように聞こえた。 だがまあ、背の高い無表情な男なんてめずらしくもないし、そこら辺にいくらでもいるだろう。 先のことなどわからないものだが、彼女は今後も結婚をしなさそうな気がする。 ただ自分の好きなことをやるために……。 それだけのために……。 酔っている頭でぼんやりとそう考えていると、スマートフォンが震えだした。 俺は酔っているのもあって、つい条件反射で誰か確認もせずにとってしまう。 「やあ、(アズ)。元気かい」 落ち着いていながら陽気な感じの声――。 俺を佐藤海に引き合わせた人物――小原羊(おはらよう)こと(ヒツジ)くんだ。 「いや、元気じゃない。少し酔ってる」 「ならゴキゲンじゃないのかな? ほろ酔いってのは人生の中でも難易度(ないんど)の高い境地(きょうち)なんだぜ。中庸(ちゅうよう)が一番難しいんだ」 「ブッタみたいなことを言うなよ。それができれば今みたいな人生を送ってない」 電話越しで笑う(ヒツジ)くん。 今言ったことの何が面白んだか、俺にはさっぱりわからない。 「こうやって電話したのはね。実は海に言っておいてほしいことがあるんだ」 「伝言しろっていうのか? このデジタルな時代に? 俺じゃなくて自分で言えばいいだろ。電話が無理ならLINEがあるし」 「いやいや、(アズ)から言ってもらいたいのさ」 よく分からないが、どうも海には言いづらいことみたいだ。 俺はさっさと電話を切りたいのもあって、引き受けることにした。 「よし、じゃあ伝えておいてくれ」 「ああ、だけどあまり難しくて長いのは無理だぞ、メモとか取りたくないし」 「簡単で短いよ。次のライブには行けないってことを伝えてほしいんだ」 (ヒツジ)くんは、軽い感じでそう言った。
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