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第一話 東と海~その1
「へえ、あなたイアン·カーティスが好きなんだ」
今さっきで会ったばかりの女と好きなアーティストの話をしている。
それは、呼び出された安居酒屋に来てみたら、バンドでギターを弾いてくれという話になったからだ。
「バンドマンでジョイ·ディヴィジョンが好きな人ってめずらしいね」
女はそういって着ていたごついライダースを脱いだ。
その両腕は刺青だらけで、周りにいた客や店員がその姿を見てギョッとしていた。
それから女は、長い真っ黒な髪をかき上げて、綺麗な形の耳が露になる。
見えるピアスの数は一つ二つではない。
両手の指では数えきれないほどだった。
このThe CureのTシャツを着た女の名は、佐藤海。
通称“音楽と寝た女”。
今日俺を呼び出した男――小原羊の友人だ。
年齢は俺と同じ30代らしいが、若く見えるのもあって、ヴィジュアル系の追っかけをやっている学生にしか見えない。
「でも、羊くんから聞いていた印象とちがったな。なんか思っていたよりずっと強そう。あたしの知ってる危ない人に雰囲気が似てるよ」
そういった彼女は、頼んだラムコークを豪快に飲みながら、煙草ポール·モール メンソール ライトに火をつける。
……羊くん。
呼び出しておいて、なぜ彼はここにいない……?
そう思いながら俺も、持っていた煙草Westのメンソールに火をつけて紫煙を吐き出した。
「あっ! そうそう。あたしのことは海って呼んでね。あなたは……東憲博だっけ? 羊くんが東って呼んでいたからあたしもそう呼ぶよ。いい?」
どうやら俺のことは一通り聞いていたらしい彼女は、当然名前も知っていた。
そんなことよりも羊くんは、俺を呼び出した理由を何も説明していなかった。
……バンドに入れだって?
今の俺はそれどころではないんだが……。
だが、ここで初対面の人間と悪い空気になるのは色々面倒だったので、とりあえず聞きたいことを訊くことにする。
「それはいいけど。羊くんはどうしたか知ってる? 遅刻するって言っていたとかさ」
「さあ?」
首を傾げながら煙を吐く彼女。
そんなことは気にするなと言わんばかりに話を続けてくる。
「それでイアン·カーティスのどこに好きなわけ?」
これは試されている。
何故ならジョイ·ディヴィジョンの評価は海外で高く、ロック評論家の受けもいいバンドだからだ。
だから、よく知らなくても好きだという人間は結構多いのだ。
だが、俺はそんな連中とは違う。
本当に彼らの音楽が好きなのだ。
「ジョイ·ディヴィジョンの音楽は文学的で、それを担っているのがイアンの詩だからだよ」
和訳を読むと分かるが、イアン·カーティスは確実に作家の影響を受けている。
T·S·エリオット、ゴーゴリ、J·G·バラード、ジョセフ·コンラッドに、なんといってもウイリアム·バロウズ。
というのは、あとで知ったことで、実はイアンの書く詩には、自分自身に対する怒りや悲しみが強く表現されていて、そこが好きだった。
若いときに音楽にのめり込んだきっかけはパンクロックだったが、外へエネルギーを発しているパンクロックより、内へ内と向かっていくジョイ·ディヴィジョンの音楽の方がずっと当時の俺の傍にいてくれたんだ。
「もちろん曲もサウンドも好きだよ。デッド·ソウルズみたいなヘヴィーな曲から、アトモスフィアみたいな壮大なバラード。それからラヴ·ウィル·テア·アス·アパートなんて、とても悲しい曲なのに疾走感があって、なによりもポップソングとして完璧だしね」
「東!! わかってんじゃん!!!」
海は嬉しそうに言うと、持っていたラムコークのグラスを、俺の手にあるコーラハイボールのジョッキにぶつけてきた。
この話をした後から、急に海は馴れ馴れしくなっていく。
まあ、気持ちはわかるが……正直ウザったく感じてしまう。
しばらく飲んで、英国ポストパンクや90年代のシューゲイザーバンドの話で盛り上がっていると――。
「でさ~、もう次のライブ決まってるから」
「はぁ?」
俺が明らかに嫌な顔をしていたが、海はすでにベロベロなっているせいなのか、無視して話を続ける。
「よし決めた!! 次のライブでカバー曲入れる!!! ジョイ·ディヴィジョンの……いやニューオーダーの『セレモニー』やるぞ!!!」
「あのさ、俺……まだバンドやるって決めてないんだけど……」
「なにッ!? セレモニーに決めれないだと!? じゃあどうするエコー&ザ·バニーメンの『ザ·カッター』か!? まさかPILの『フラワーズ·オブ·ロマンスか!?』 う~ん、あたしとしては死んでしまった人に捧げたい曲だからあまりハードなのは」
「……いや、話を聞いてよ」
「なに? その死んじゃった人のこと聞きたいの? ウフフ、その人はね。あたしが人生で一番酷いときに出会ってぇ~」
……ダメだこの女。
人の話を聞きやしない。
管を巻きまくる海は、それから嬉しそうにその男の話を始めるのだった。
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