捧げるはヤケクソのダッシュ

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捧げるはヤケクソのダッシュ

 カニの食事にならないように気をつけろと言われ、フリーズした。  少しの間、リズミカルに打ち付ける波の音だけが響く。  ギギギっと首だけで横を向いてクマの人を見る。 「カニって、でかいですか? 北海道のタラバ的な?」 「タラバなんてのは知らねえが、でけぇ。特に片方のハサミが異様にでけぇ。挟まれたら終わりだな」  それはタラバ級ではない。  ファンタジーの名に恥じないレベルだと確信する。 「……明日ならクマさんが祭壇に入れるんでしたっけ?」 「あぁ、でもいいのかよ?」  ニヤニヤしながらクマの人がこちらを見ている。  たしかに、あの銀髪の少女の衰弱ぶりを思い出すと、明日まで悠長に待ってはいられない。 (でも……カニのリスクすげーな)  さきほどまでの潮干狩りのようなレジャー気分が急激にしぼむのを感じる。  ゴツゴツした不安定な岩場に佇んで、しばし悩む。 (そういえば、名前も知らないんだよな……)  ここから尖塔の先が見えないかなと見上げると、わずかに鳥かごの端が見える。  しかし、あの子の姿は見えない。  今もまだ悄然として虚空を見つめているのだろうか。  名前も知らない人のために、自分の命をかけて食料を確保するなんていう英雄思考を、俺は持ち合わせてはいない。  さすがにそこまでは面倒見きれない。  助けたいとは思うが、そのために必要なチップが自分の命となれば話は別だ。  だが一方で、なんとかして体力をつけさせないと、彼女は二度と起き上がれないだろうとも直感している。  衰弱した人間に魚介類なんて食べさせていいのかは分からないが、いまのところ選択肢が他にないのだから仕方ない。  そして今日食事を届けたいなら、俺が祭壇に入って罠を回収する以外に選択肢がないのかもしれない。  さまざまな物事の選択肢が、かろうじて一本の綱渡りのように繋がっているだけでも幸いと思うべきなのだろう。 (だからって……さすがに命がけとか無理ぽ)  どんなに自分を説得する材料を並べても、これ以上足が動かない。  体育の成績が特別よかったわけでもない。  格闘技の経験もない。  殴り合いの喧嘩だってしたことがない。 (可愛いからって、知らない人のために命を賭けるとか……)  もちろん憧れはある。  そういうことができてしまうタイプだったら、今すぐ祭壇に向かって颯爽と罠を回収してきただろう。  ただ、俺は違う。  それは俺ではない。  この件は明らかに俺の手に余る。 (もうすこし城内を探索してからでも遅くはないはず)  異世界だからといって宅配ピザがないとは言えない。  もっと色々と検討してから、最後の選択肢となってから祭壇に戻ってくることにしたい。 「一回戻って城のーー」 「それ!」  クマの人に断りを入れようとした刹那、背中を強い力で押された。  圧倒的な力に踏ん張ることすら叶わず、前のめりに倒れて、そのままゴロゴロと坂を転がり落ちる。 「痛っつ!」  かなりの距離を転がり落ち、祭壇の手前まで来ていた。  肘や膝がすりむけ、検査着は泥で汚れてしまった。  驚愕して坂の上を見る。  そこではクマの人がこちらを見下ろしてニヤニヤ笑っていた。 (なんで!?)  クマの人にとって俺が罠を回収することは重要ではないはずなのに、なぜこんなことをしたのだろうか。  それに、いったいどこにそんな力があったのだろうか。  ぬいぐるみに押されたとは思えないほどに強く突き飛ばされた。  困惑して見上げていると、クマの人が海を指す。 「ほら、来たぞ」  やや離れた場所にひときわ大きな波が打ち寄せたかと思うと、そこに巨大な青いカニが見えた。  片方のハサミが異様に大きく、まるでハサミがこちらに向かっているような錯覚を覚える。  まだ距離はあるが、横歩きで海からこちらへ進んでいる。  明らかに俺の存在を認知した動きだ。 「そ、そんな……」  恐怖にかられて慌てて坂の上に戻ろうとすると、突然足元に岩が飛んできた。  コンと軽い音がして地面にぶつかった岩が爆ぜる。  見上げるとクマの人が辺りに転がる岩を担いで次弾を構えている。 「ど、どうして!?」 「さぁて、どうする? 罠を回収してくれば、帰ってきていいぞ」  何が面白いのか、今までになく楽しそうな声でクマの人が言う。 (この人は、何が狙いなんだ?)  俺を突き落としてカニの餌にすることに、何かメリットがあるのだろうか。  理由は分からない。  理由は分からないが、今は究極の二択を突きつけられていることは分かる。  前方のカニか、後方のクマか。  しかし、もし逃げたらクマの人は本気で岩をぶつけてくる気がする。  悩んでいる間にもカニがこちらに近づいてきている。  時間が経てば経つほど、俺の生存率は下がっていく。 (くそ!)  つっけんどんな態度の割には親切だと安心しかけていた。  それが油断に繋がったことは間違いないが、まさかカニの餌にされるとは思わなかった。 「おい、ほら、さっさと走れよ」  ゴンと俺の横で岩が砕ける。  簡単な挑発だとは分かるが、その挑発に乗って一気に祭壇を目指して駆け出した。  もう勢いでなんとかするしか選択肢が思いつかない。 「くそぉああ!」  全力で走るなんて高校の体育以来かもしれない。  思ったよりスピードが上がらず、それが余計に苛立たしい。  祭壇の階段を駆け上る。  視界の端にカニのハサミが見える。  なんとかカニが来る前に罠まで到達した。  岩に軽く巻き付いている紐を掴んだ瞬間。  突然手元が陰った。  慌てて見上げるとカニが目の前にいた。  紐を掴んだまま横に倒れ込む。 「痛っ!」  馴れない動作のせいか、倒れたときに肘を打った。  体を捻って後方を確認すると、今まで俺がいた場所をカニのハサミが突き刺していた。  ぞわりと鳥肌が立つ。  カニはすでに次の動きに入っている。  もはや丁寧に紐を引っ張り上げている間などない。  紐を肩に担ぐ。  そのままダッシュしようと立ち上がって足に力を入れた。  ちょうど陸上選手がスタートダッシュ時に前傾姿勢で走るようなイメージであったが、日頃からトレーニングなどしていない俺にはそんなことができるはずもなく、そのまま前に突っ伏すように転倒してしまった。  とっさに後ろを振り返ると、カニが前歩きで距離を詰めてきている。  歩きながらデカいハサミを振り上げている。 「おーい、死ぬぞ〜?」  クマの人の声にハッとして、ゴロゴロと横に転がると、一拍遅れてハサミが祭壇を叩いた。  祭壇が削れて小さな破片が体にぶつかってきた。  目に入らないように顔を覆って防ぐ。  もう一度立ち上がろうとしたが、それより早く眼前までカニが横移動していた。 (早すぎるっ!)  カニと目が合う。  前歩きとは段違いのスピードでカニが距離を詰めていた。  片方だけ異様に大きく成長したハサミを振り上げている。  横に転がされた時点で詰んでいたのかもしれない。  カニのハサミが無慈悲に振り下ろされる。  その刹那ーー。  ダン!  岩がハサミにぶつかり軌道が逸れ、ハサミが俺の頬をかすった。  夢中で紐を掴み直して、祭壇から飛び降りるようにヘッドスライディングで逃げ出す。  比喩でもなんでもなく、着地のことなど考えずに全力で頭から飛び降りた。 「ぐぉ!」  肩から地面に激突してうめく。  早く坂を登って逃げたいが、恐怖と痛みで立ち上がることができない。 「う”ぅ、ぐぬ」  喘ぎながら這いずるように前に進む。  後ろを振り返りつつ逃げる。  しかし、なぜかカニは祭壇からは降りてこない。  じぃっと逃した獲物を見下ろしている。  ぶくぶくっと泡をふいて乱れた呼吸を整えているようにも見える。  やがて獲物を見ていることにも飽きたのか、ゆっくり祭壇の横から海の中へ戻っていった。 「た、助かった……?」 「おまえ、どんくさいなぁ。もっとこう、サッと避けてシュッと走る、みたいにいかないのか?」  クマの人が好き勝手なことを言いながら近づいてくる。  次に何をするつもりなのか、緊張しながらクマの人を見る。  もし襲ってきたら、どうすればいいのか。  立って迎え撃ちたいが、腰が抜けているのか、力が入らない。 「ん? おい、なんだその目は? なんか文句あるのかよ?」  バカにしているのか、それとも楽しんでいるのか、どちらとも言える表情でクマの人が話しかけてきた。  俺が何も言い返さずに睨んでいると、軽く舌打ちをして両手を上げた。 「あ〜あ、まともに文句も言えねえのかよ。ダッせ。オレ様が弱い者いじめしてるみてぇじゃねぇか。っつーか岩投げて助けてやったろ? 別にてめえを獲って食おうなんて思ってねえよ」 「あ、あのときの岩……」  たしかに、カニのハサミが振り下ろされた瞬間に、岩が当たって軌道が逸れた。  その一手で助かったと言える。  そのおかげもあって、ボロボロではあるが、どれも軽傷に過ぎない。  日頃から電車やエレベーターに依存して、運動らしい運動もしていなかった現役大学生としては、奇跡的な結果と言える。 「なら、なんで背中を……?」 「ん? あぁ、さっきおまえに呪いが発動しなかった件で、呪いって融通効かないのかもなぁと思ってな。祭壇に足を踏み入れられなくても、外から岩を投げ込むのは平気かどうか試したんだわ」  クマの人がそう言って胸を張る。 「そ、それを試したいから、俺を押した?」 「まぁな。早く試してみたくてな。何だよ、どうせおまえビビって動けなかったろ?」  それはそうだ。  もう引き返すつもりだった。 「でも、それなら相談してもらえたら……」 「なんで?」  そこでいったん言葉を区切ると、最初に会ったときのように冷たい声で聞いてくる。 「なんでオレ様が、おまえに相談しなくちゃならないんだ?」  当たり前のことを聞くなとも取れるし、ナメた口を聞くなとも取れる調子でクマの人が言った。  なんとなく、この人とは馴れ合っていた。  現代人の感覚で「クマがパーティーに加わった」くらいの気安さで行動を共にしていた。  しかし、俺の命にかかわる出来事を、この人は俺に何も相談なく、自分の好奇心を満たすためだけに勝手に決めたのだ。  それは、俺の知っている世界の基準で考えれば、むちゃくちゃだ。  横暴だ。  でも、いまは違うのかもしれない。 「あ、足が……」  突然足がガクガクと震えだして、俺は立ち上がることさえできずにいた。  足の裏はいつの間にか切れていたのか、ところどころ血が滲んでいる。 (いきなりハードモード過ぎるだろ、異世界……)  こちらに来てから何回目かのピンチを乗り越えて、今更ながら厳しい現実に身を投じてしまったのだという実感を抱いていた。
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