第三章 嘘つきの本音

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第三章 嘘つきの本音

 その晩、夜空には綺麗な満月が浮かんでいた。  出身地が判明したことで興奮していたのか、いつも以上に寝つきの悪い夜だった。眠れないなぁと思いながらカーテンの隙間から差し込む月の光を見つめていたはずが、気がつけば僕はまた、真っ白な世界の(ただ)(なか)にいた。  音もなければにおいもない。いつもと同じ夢の景色。  しばらくすると、あの女の子が現れた。クラスメイトの淀川さんにそっくりなのに、小さな体でランドセルを背負った少女。  ゆっくりと近づき、距離を縮める。彼女はまた、僕に何かを伝えようとしていた。  ――ねぇ、何て言ったの?  声に出してみようとしても、この世界が音を取り戻すことはない。  けれど今日は、いつもよりはっきりと彼女の口の動きが見て取れた。  僕は目を見開いて、彼女の唇を凝視する。    や、め、て。  はっ、と息をのみ込んだ。彼女の口は、確かにそう動いていた。  ――やめて?  何を? 何をやめてほしいの?  すぅっ、と彼女が遠くなる。  僕は彼女に手を伸ばす。  お願い、待って。行かないで。  僕は君に、一体何をしてしまったというの?  ねぇ――……。 「待って!」  叫びながらバチッと目を開けると、景色が色を取り戻した。  くすんだパステルブルーの天井。紛れもなく、僕の部屋だ。  壁掛け時計に目をやると、時刻は六時を少し過ぎたところ。ライトグリーンのカーテンの隙間から漏れ出す光が、月明かりから朝日に変わっていた。  ――また、同じ夢を見た。  こんなにも間をあけずにあの夢を見たのははじめてかもしれない。そのせいか、いつもよりも頭痛がひどいみたいだ。  起き上がる気になれず、右側が下になるよう体の向きを変え、布団の中で膝を抱えて猫のように丸まった。 「…………〝やめて〟」  夢の中の彼女が紡いだであろう言葉を口にする。  彼女は僕に、何をやめさせたかったのだろう。  僕は彼女に、何をしてしまったというのだろう。  やめて、と言ったということはつまり、彼女は僕を拒絶したということだ。  僕が彼女にひどいことをしたから? つらい目に遭わせてしまったから?  あるいは本当に、僕は彼女のことを殺そうと……? 「…………っ」  悪い想像ばかりが膨らみ、頭がガンガン鳴り響いて今にも割れてしまいそうだった。まぶたが重くて勝手に視界を塞いでしまうけれど、頭痛がひどすぎてまったく眠れる気がしない。  あの夢を見れば見るほど、あの子に近づけば近づくほど、真っ白な景色の中で出会うあの少女は本当に淀川さんなんじゃないかと思えてくる。僕も彼女と同じ東京の出身だということがわかったせいもあって、やはり僕と彼女は、僕の忘れてしまった過去のどこかですれ違っているのではないかと、そう思えてならないのだ。  抱えた膝を引き寄せる。学校に行きたくないと思った。今彼女と顔を合わせて、冷静でいられる自信がない。  記憶を取り戻そうと決めたのは僕だというのに、やっぱり過去を知るのは怖い。夢の中で、彼女に『やめて』と言わせてしまった僕が、まともな人間であるとはどうにも思えなかった。  目覚めてからずっと、心臓がばくばくと大きな音を立てている。不安ばかりが押し寄せてきて、すごく、息苦しい。  決して戻ることのない時計の針は、頭上で静かに時を刻み続けていた。 「〝やめて〟?」  今日を乗り切れば明日は土曜日だ、と結局頭痛を押して登校した僕は、一向にひく気配のない頭の痛みと闘いながら、昨日と同じく昼休みに中庭で聡平と会議を開いていた。 「うん……確かにそう言ったんだ、夢の中の女の子は」 「言ったって……声を聞いたわけじゃねぇんだろ?」 「口の動きが絶対にそうだった」 「おいおい、何ムキになってんだよ」 「なってない」 「は? 意味わかんねぇ。なんで怒ってんのおまえ」 「別に怒ってなんか……」  言いかけて、僕は咄嗟に口をつぐんだ。  確かに怒ってはいないけれど、機嫌が悪いのは認める。頭の鈍痛は続いているし、何より自分が淀川さんと同じ東京出身だということがわかった昨日の夕方からずっと動揺しっぱなしだ。今日の僕はいつになくイライラしていて、つい聡平への当たりがきつくなってしまった。 「…………ごめん」  素直に謝ると、聡平は小さく息を吐き出した。 「しんどいよな」 「え?」  しんどいんだろ、ともう一度聡平は同じことを繰り返す。 「進んでも闇、戻っても闇。ふたを開けるのも怖いし、開けないままでいるのも怖い。そりゃ機嫌も悪くなるだろうさ。見てるこっちがちょっと心にキちまってるしな、実際」 「聡平……」  僕の痛みを、まるで自分のことのように感じてくれている聡平。彼の頼もしさに寄りかかるばかりで、僕は少しも彼の気持ちを(かえり)みたことがなかったと今になって気がついた。 「ごめん、僕……」 「謝んなって」  聡平は笑った。 「安心しろ、理紀。乗りかかった船だ、ちゃんと最後まで付き合ってやるよ。……っていうか、半分はオレがけしかけたようなもんだし」  責任は取る、と聡平は言った。彼の紡ぐ言葉はいつだって前向きで力強くて、反対に僕は、すぐに後ろを向きたがる。 「〝やめて〟かぁ……」  今日もおにぎりにかぶりつき、聡平は斜め上を仰ぎながらつぶやいた。 「どういう意味だ? いいほうにも取れるし、悪い意味にも聞こえるよなぁ……」 「いいほう?」  悪いほうばかりに考えていた僕には、彼の言葉の意味がよく理解できなかった。 「いいほうって?」 「ほら、たとえば褒められたことに対して謙遜の意図で『やめてくださいよ』って言ったりするだろ?」 「……それ、僕の記憶喪失と関係ある?」 「ないな、間違いなく」  ははっ、と聡平は声に出して笑う。 「もう、真面目に考えてるの?」 「考えてるって! けどマジでさ、悪い意味ばかりとは限らないぜ? その女の子がおまえの行動に対して〝やめて〟って言ったんだとしても、おまえの行動の矛先がその子だと決まったわけじゃねぇし」 「……どういう意味?」 「要は、〝やめて〟っていうのがおまえの行動を制す言葉だったとしても、おまえがその子に対して何らかの攻撃をしようとしたとは限らねぇってことだ。誰か別の人間に対して向けられた行為をその子が見ていて、おまえのことを止めようとしたっていう可能性だって考えられるだろ?」  なるほど、そういう見方もできるか。夢の中では彼女とふたりきりだけれど、僕が記憶を失った瞬間に僕が誰といたのかまではわからない。夢のとおり彼女とふたりきりだったかもしれないし、そもそも彼女は僕の記憶喪失とはまるで無関係だという可能性もある。昨日聡平が言っていたとおり、現時点での安易な決めつけは視野を狭めるばかりで事態を好転させることはない。僕は少々、熱くなりすぎているようだ。 「聡平……君ってどうしていつもそんな風に冷静な判断ができるんだ?」 「そりゃおまえ、オレ様が優秀だからに決まってんだろ」 「…………」 「ってのは冗談で、単純に第三者だからだろうな」 「第三者?」 「そ。おまえの無くした記憶について、オレは完全な第三者だ。オレとおまえが出会ったのは、おまえが記憶喪失になったあとのことだからな。それに対して、おまえは例の夢を見たり自分の失った記憶に怯えたりしてる。つまりは当事者だ。不安な気持ちを抱えたままじゃ、誰だって冷静でなんかいられねぇって」  だろ? と言われ、まったくそのとおりだと思った。  淀川さんがこの学校に転校してきてからというもの、僕は何かにつけてあの夢と失った記憶に翻弄されすぎだと思う。第三者である聡平の手を借りるにせよ、僕自身がもう少し冷静でいられる努力をしないと、記憶を取り戻すことは叶わないかもしれない。 「踏ん張りどころだぞ、理紀」  まっすぐ僕の目を見つめ、聡平は真剣な面持ちで言った。 「つらいのはわかる。けど、すべてが明らかになりゃ今よりずっと楽になれるはずだ。だからがんばろうぜ、一緒に」  ぽんぽんと肩を叩かれる。言葉では伝えきれない、彼の内に秘めた勇気を分け与えてもらった気持ちになった。 「うん」  僕は精一杯の笑顔で答えた。不安な日々から抜け出すためにも、中途半端に立ち止まってしまうわけにはいかない。 「とりあえず、淀川が名古屋(こっち)に越してくる前、おまえと同じ武蔵野ってところに住んでたかどうかを確かめねぇとだな、まずは」 「うん……そう、だよね……」  相槌を打ったはいいものの、確認の手段を考えると別の意味で頭が痛くなった。 「自分で訊けよ? 理紀」  僕の憂鬱を早速察して、聡平がニヤニヤしながら僕を見た。僕は即座に首をぶんぶんと横に振る。 「無理」 「はぁ?」 「無理。本っ当に無理」  そう。  淀川さんの出身地を明らかにするためには、淀川さん本人に尋ねるのがもっとも手っ取り早い手段だ。けれどこの僕にそんなことができるはずもない。  自分から女の子に話しかけるなんて、僕にとっては神の芸当と同じだ。たとえ相手が淀川さんでなくとも、自らすすんで女の子とコンタクトを取るくらいなら真冬の海に飛び込むほうがまだマシだとさえ思う。 「理ー紀ー」 「イヤだ。無理。話しかけられない。目を合わせるのがまず無理。しぬ」 「なんでだよ! この間しゃべったんだろ? 淀川と」 「あの時はほとんど不可抗力だったから! 向こうから近づいてきたんだ、ただでさえ挙動不審だった自覚があるのに逃げ出したら余計に変な目で見られるじゃないか!」 「大丈夫だ理紀、すでに変な目で見られてる可能性が高いぞ」 「だったらなおさらしゃべれないってば! あーもう無理……目が合う瞬間を想像しただけで怖い。無理。しぬ」 「だーもうっ! めんどくせぇヤツだなおまえは! これを機に克服しようとか、そういう気概はねぇのかよっ」 「ない。無理。以上」  ぴしゃりと言い放ち、僕はから揚げを一つ箸でつまんで口の中に放り込んだ。隣で聡平が盛大にため息をついているけれど、無理なものは無理なのだから仕方がない。  しかし、どうして僕はこんなにも女の子のことを怖いと思ってしまうのだろう。やはりあの夢の影響だろうか。あの夢に出てくる女の子の眼差しを、他の女の子にも重ねてしまうから?  いずれにせよ、いつまでも逃げてばかりいてはちっとも前に進めないのもまた事実だ。女子への苦手意識も記憶喪失についてもすべては僕の問題なので、何でもかんでも聡平に頼むわけにはいかない。  動くなら、自分で。  では、どうするか。 「あー、そうだ」  気を取り直した聡平が不意に言った。 「本人に訊けねぇっつーなら、ガッキーに訊いてみろよ」 「へ?」  思わぬ提案に、僕はやや間抜けな声を上げてしまった。 「ガッキー?」 「ほら、うちのクラスの室長になった合唱部の石垣」 「あぁ……」 「昨日見たんだよ、放課後にガッキーと淀川が並んで歩いてるとこ。たぶん米村がガッキーに頼んで淀川のために学校案内をさせたってとこだろうけど、転校してくる前のことを会話のきっかけとして尋ねてるかもしんねぇだろ?」 「そっか、なるほど! 石垣くんなら僕にも話しかけられるし、優しそうだからきっといろいろ教えてくれるよね!」  一気に道が開けて気分が高まり、僕はひとりうんうんと明るくうなずいた。けれどそれとは対照的に、聡平の眉間には深々としわが刻まれる。 「……なぁ理紀、そこはもうちょっと遠慮気味に言ってほしいところだぞ」 「え、そう? なんで?」  何に対して遠慮すればいいのかわからず首を傾げると、聡平は再び大きなため息をついた。 「まぁいいや。淀川との関係のほうはおまえに任せる。オレは五年前の四月に武蔵野周辺で起きた事故や事件について調べてみるわ。ネットじゃ限界があるだろうけど、何もしないよりはマシだろ」 「うん、ありがとう。僕も自分なりに調べてみるよ」  当面の方針が決まり、少しずつでも前進していることを肌で感じてほっとする。  手早く弁当箱を空にして、僕は早速我が二年六組の室長・石垣くんを尋ねるべく教室へと戻った。
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