第三章 嘘つきの本音

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 五時間目が終わり、手早く着替えて教室へと戻る。六時間目は米村先生の数学Bの授業だ。昔から数学などの理系教科が得意で、特に米村先生は教え方がうまいこともあって、体育のあとの六時間目という体力的に厳しい時間帯であるにも関わらず、僕にとっては楽しみな時間だった。  席に着き、机の中から教科書とノートを取り出そうと冊子の束をごっそり引き出す。すると、はらりと何かが足もとに落ちた。 「ん?」  視線を床へと向けると、僕の座る椅子のすぐ下に二つ折りにされた白い紙が落ちていた。腰を屈めて拾い上げ、開く前にまずは外観を眺めてみる。  一枚のルーズリーフだった。折られた外側には何も書かれていない。僕はルーズリーフではなくノート派だし、こんな紙を入れた覚えもない。  手紙だろうか? 不審に思いつつ、僕は両手でそっと紙を開いた。    〝手 を 引 け〟 「……!?」  文言だけでなく、僕は手紙の様相そのものに息をのんだ。  手書きではなかった。新聞の文字を切り貼りし、短い文章に仕立てられていたのだ。フォントも大きさもバラバラで、一文字ずつ角度を変え、一列に並べずガタガタに貼り付けてある。切り抜きの文字による黒とグレーのコントラストが白いルーズリーフの上で踊り、あまりの不気味さに背筋が凍った。 「はー数学だりー」  その時、トイレに行っていた聡平の声が後ろから聞こえてきた。びくっ、と僕は思わず肩を大きく震わせてしまった。 「あ? 何ビビってんだよ理紀」  強張った表情のまま勢いよく振り返った僕の姿に、聡平はおもいきり眉を寄せる。 「い、いや…………その、別に」 「は?」  つい口ごもってしまってから後悔した。聡平はこういう態度を取られることが何よりも嫌いなのだ。案の定、聡平の顔がみるみるうちに怒りの色に満ちていく。 「おい、何隠してんだよてめえ」  上からギロリと降ってくる視線が突き刺さり、一瞬息ができなくなる。見せるべきか迷ったけれど、僕は黙って例の手紙を聡平に差し出した。 「…………んだよ、これ」  ルーズリーフを見つめる聡平の瞳がぐらりと揺れた。 「〝手を引け〟って……まさか」  椅子に座ったまま聡平と見上げる僕と、僕の席の横に立って僕を見下ろす聡平の視線が交わる。僕らの考えが、今一つに重なった。  ――手紙の送り主は、僕が失った記憶を取り戻そうとしていることを知っている。  僕も聡平も、手紙の文言からそう推理したのだ。 「誰が……?」  僕は素直な疑問を口にする。こんな手紙を送りつけてきたのは、一体どこの誰なのだろうと。 「はっ。そんなの、あいつに決まってんだろ」  手紙を握りしめたまま、聡平はキッと鋭くした目つきで教室の後ろ側の扉を振り返る。もちろん扉を見たかったわけではなく、彼の視線は、廊下側の列の最後尾に注がれていた。 「弘海!」  けれどそこには目的の人物の姿がなく、聡平はその席のすぐ隣に座る弘海さんの名を半ば怒鳴りつけるようにして呼んだ。 「なに」 「淀川は?」 「はい?」  弘海さんは不意を突かれたようで、目を丸くしながら答える。 「鈴子ちゃん? ……さぁ、トイレじゃない?」 「一緒に戻ってきたんじゃねぇのかよ?」 「戻ってきたよ! っていうかさっきまでここにいたし。どこ行ったんだろ、ほんと」  弘海さんの様子に不自然なところはなく、聡平の目的の人物であるところの淀川さんは、本当に弘海さんが気づかぬうちに教室から消えてしまったようだ。  チッ、と聡平は舌打ちする。同時に始業のチャイムが鳴り響いた。 「おーい、みんな座れよー」  前側の扉から米村先生が入ってきて、聡平をはじめ、立っていた生徒たちが一斉に自分の席へと戻っていく。その波に紛れるように、淀川さんがするりと教室内へとすべり込んできた。  僕も聡平も、しばらく彼女の様子を窺っていた。その視線に気づいたのか、淀川さんもこちらを見る。  目が合ってしまって、僕は咄嗟に視線を逸らす。一つ後ろの席で、聡平がもう一度わかりやすく舌打ちをしていた。  一瞬僕らに目を向けてきた彼女が、いつになく涼しい顔をしているように見えたのは気のせいだろうか。  まるで聡平の追及から逃れるためにわざとチャイムと同時に戻ってきたかのような、どこか余裕を感じさせる雰囲気をまとっていた。
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