第一章 記憶のない僕

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 南館一階にある保健室に到着するや否や、聡平は養護の先生に向かって「ベッドをあけてくれ!」と叫んだ。幸い二台あるベッドはどちらもあいており、僕は意識が朦朧とする中、南側のベッドへと倒れ込んだ。  僕が目を閉じたままうんうんとうなり声を上げている間、聡平はずっと僕のベッドの脇で寄り添い続けてくれた。「落ち着け」「大丈夫だぞ」と時折優しく声をかけてもらい、かなりの時間が経ってようやく、いつものような鈍痛程度にまで頭痛は治まってくれた。 「落ち着いたか」  ゆっくりと目を開けると、聡平が心配一色の顔で僕を覗き込んできた。 「うん……ありがとう、聡平」  体を起こそうとしたけれど、「もうちょっと休んでろ」と押し戻された。 「理紀」  再び枕へと頭を預けた僕に、聡平は少し迷ったような口調で言った。 「何か、思い出したか?」  ドクン、と心臓が飛び跳ねた。  僕には、過去の記憶がない。  小学校六年生になったばかりの春。具体的な日付までは覚えていないが、四月の半ば頃だと思う。  ある日を境に、僕は過去の記憶を綺麗さっぱり無くしてしまった。  何があったのか、なぜ記憶を失ってしまったのか、僕にはまったく心当たりがない。文字の読み書きや言葉を操ることなんかはできるけれど、自分の身に起こったことや周りの人たちのことなど、自らの人生に関わるエピソードはすべて忘れてしまっていた。  気づいた時には病院のベッドの上にいて、両親の顔も、自分の名前さえも思い出せない。トイレに行って鏡を見たら頭に包帯が巻かれていたので、どうやらどこかで頭を強くぶつけたらしいことは理解できた。けれど、それがいつ、どこで、どういった状況下で起きたことなのかはまったく思い出すことができなかった。事故なのか、事件に巻き込まれたのか、はたまた自分の意思で頭を打ちつけたのか……僕には何一つ思い出せなかったのだ。  しばらくは新しく記憶することすらできなくて、後から聞いた話によると、両親の顔と名前を覚えるまでに一週間ほどの時間を要したらしい。今思い出せる一番古い出来事は、退院して、家を引っ越して、名古屋の小学校に通い始めた時のこと。  六年生の五月という中途半端な時期に転校生が来たということで、僕の迎え入れられたクラスの児童たちは皆、僕に好奇の目を向けてきた。『どこから来たの?』『部活には入るの?』『前の小学校では好きな子がいたの?』……それまでどこの小学校に通っていたのかも覚えておらず、これまでの自分が小学生としてどのように振る舞ってきたのかさえまるで思い出せなかった僕は、どの質問に対しても『わからない』と答えることしかできなかった。当然クラスメイトたちから早々に変人認定を受け、距離を置かれることになった。  そんな中、唯一僕から『わからない』以外の言葉を引き出すことを諦めなかった男がいた。それが聡平だった。 『何で出身地すら言えねぇんだよ? なんかやばいことやって逃げてきたんじゃねぇだろうな?』  初っ(ぱな)からケンカ腰で、おもいきり疑いの目を向けてきた聡平に、僕はますます縮こまるばかりで何を答えることもできずにいた。  けれど、小さくなる僕を見て、聡平はこう言ったのだ。 『人間ってのは、平気な顔で嘘をつく。……オレは、嘘つきが大嫌いだ』 『違うッ!!』  反射的に、僕はそう叫んでいた。 『僕は嘘なんてついてない!』 『じゃあなんで言えねぇんだよ!?』 『本当にわからないんだ!」  僕が声を張り上げると、聡平はまんまるにした目で僕を見た。 『僕……記憶がないんだ。ここに引っ越してくるまでのこと、全部忘れちゃったんだよ』  この瞬間が、僕が誰かに自らの記憶について話した最初の時で、誰かの胸の中で泣いた一番古い記憶だった。  父さんも母さんも、名古屋で一緒に暮らすことになったおばあちゃんも。誰ひとりとして僕が記憶を無くした原因を教えてはくれなかった。『昔のことは思い出さなくていい。この先の人生を目一杯楽しみなさい』と、両親はそんなことばかりを僕に言って聞かせてきた。そんな話を聡平にしたら、涙が止まらなくなってしまったのだ。  僕は本当に、生まれた時から〝小坂理紀〟という人間だったのか。両親だと名乗る人たちは本当に僕の親なのか。僕は昔どこに住んでいて、どうして名古屋に引っ越さなければならなかったのか。  怖いんだ、と聡平に言った。わからないことが怖いのだと。  聡平は、『ごめんな、嘘つきだなんて言って』と謝った。『オレは今のおまえしか知らねえ。だから、今のおまえと友達になる』と、そう言って笑ってくれた。  以来、聡平は僕の一番の親友だ。記憶喪失だなんて周りに知られたら絶対にいじめられると思ったから、六年生の時からずっと、聡平以外の誰にも僕の記憶のことは話していない。ボロが出そうになった時はさりげなく聡平が助けてくれたし、いつもクラスの中心にいてムードメーカー的存在だった彼と友達になれたおかげで、転校当初に受けた変人認定はすぐに解かれることになった。  この五年間、過去の記憶を無くしたことで不自由を感じることはほとんどなかった。自転車にも乗れるし、金勘定も問題なくできたので、日常生活に支障が出るようなことにはならなかったのだ。もちろんいじめられることもなく、それなりに楽しい日々を過ごしてきた。  ちょっとだけ不自由だと感じるのは、時折鈍い頭痛に襲われること。そう、あの真っ白な夢を見たその日に。  聡平にもそのことは打ち明けていた。何度も同じ夢を見て、そのたびに頭痛がするのだと。彼が担任の米村先生に『こいつのことはわかっている』と言ったのは、僕の頭痛の原因を知っているという意味だ。 「……ううん」  ベッドに身を委ねたまま、僕は首を横に振る。 「やっぱり何も思い出せない。ただ頭の中をぐちゃぐちゃに掻き乱されただけで……」 「今朝は、例の夢を見たのか」  その問いかけに、僕は一瞬、ぴたりと動きを止めた。 「夢……」  つぶやいて、はっとした。 「そう! 夢だよ聡平!」 「な、何だよ急にでけぇ声出して……」 「あの子! 転校生の子!」 「は?」 「夢に出てくるんだ! いつも見る同じ夢に!」 「何?」  聡平の表情が一気に険しくなる。 「マジかよ?」 「たぶん!」 「たぶんって……」 「いや……うん、そう。たぶん、なんだけど」  言っているうちに、だんだん自信がなくなってきてしまった。  はじめて彼女の顔を見たとき、咄嗟に『あの夢の子だ!』と思ったのは間違いない。夢の中では小学生だけれど、面影がまさに転校生の彼女とぴったり重なったような気がしたのだ。 「まぁ、まったくあり得ない話ってわけじゃねぇとは思うけどな」  ベッドの下に収納されていた丸椅子を引き出し、それにどかっと腰かけながら、聡平は腕組みをしてそう言った。 「夢ってのは脳が記憶を整理している間に見るものだって話を聞いたことがある。つまり、もしもお前の夢に出てくる女の子があの転校生……淀川って言ったっけ? あの子だったとするなら、おまえが記憶を無くすよりも前に、おまえはあの子とどこかですれ違ってる可能性があるってことだ」 「僕と、彼女が……?」 「考えてみろよ。おまえだってもともと名古屋に住んでた人間じゃねぇ。あの子は東京から越してきたって言ってたが、おまえはどこから名古屋へ移ってきたのかもわからない。なら、おまえだってあの子と同じように東京からこっちへ引っ越してきたのかもしんねぇぞ?」  確かに、と僕は思った。聡平の話には一理ある。 「だいたい、親がおまえの過去について一切教えてないなんてことがそもそもおかしいんだよな。事情はともかく、どこから引っ越してきたかくらいは教えたって問題なさそうなもんだろ?」 「うん、それは僕もずっと思ってた。でも、父さんも母さんも昔の話をするとすごく暗い顔になっちゃうから、聞くに聞けないまま五年も経っちゃったっていうか……」 「なぁ、理紀。今さらおまえを責める気はねぇけどよ、やっぱ小六の時にいろいろと疑問を解消しとくべきだったんじゃねぇか? おまえんちの抱えてる問題が何なのかとか、どうしておまえの記憶が失われることになったのか、とかさ」 「ごもっとも」  けれど、あの頃の僕はどうしても両親の悲しむ顔が見たくなかったのだ。昔の話を振ったときの何とも言えない悲愴感が、記憶を無くしたばかりでまだ幼かった僕の心には何よりも重たくのしかかって、むしろ消え去った記憶を取り戻すことは許されないのだと自分自身に言い聞かせることに必死になっていたほどだ。 「いい機会なんじゃねぇか?」  聡平は言った。 「もし本当におまえの夢に出てくる女の子があの転校生なら、向こうだっておまえのことを知ってるかもしんねぇわけだろ? もしおまえが過去の自分について知りたいと思うんなら、あの子に直接()いてみろよ」 「直接?」 「そう。『僕のこと知ってる? 昔どこかで僕と会ったことない?』ってさ。知らねえって言われりゃ人違いなんだろうし、知ってるんなら儲けもんだ。失った十一年分の記憶を取り戻すきっかけになるぜ、きっと。実際、あの子を見た途端におまえはひでぇ頭痛に襲われてんだ。あの子と直接言葉を交わしたら、それが引き金になって記憶が戻るかもしんねぇぞ?」  うん、と僕は聡平から目を逸らしつつ曖昧な相槌を打った。  聡平の言わんとすることは理解できる。しかし、それを実行に移すかどうかと問われれば話は別だ。 「理紀?」  押し黙る僕を、聡平がそっと覗き込んでくる。ちらりとだけ彼を見て、またすぐに視線を外した。 「……怖い、かも」 「怖い?」  僕はこくりとうなずいた。 「聡平、昔僕に言ったでしょ? 何かやばいことをやらかして名古屋まで逃げてきたんじゃないのかって。あれ、実は本当にそうなんじゃないかってずっと思ってたんだ」 「ばか、やめろよ。あんなのガキの頃言った()れ言だって」 「違うよ。あの時の聡平の目は真剣そのものだったし、両親が僕の過去をひた隠しにしてるってことは、よほど知られたくない事実があるってことでしょ?」 「理紀、おまえ……?」  聡平が立ち上がった。僕はむくりと上体を起こし、かすかに瞳を揺らす親友を見上げる。 「ねぇ、聡平……僕って、本当は何者なのかな」  ごくりと聡平が唾をのみ込む音が響いた。
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