第五章 動き出した決意

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 保健室にひとりぽつねんと取り残された僕は、すぐに教室へと戻ることにした。  後ろ側の扉から中へ入ろうと思ったけれど、目に飛び込んできた景色に足を止めざるを得なかった。  廊下側の最後列。僕が保健室に行っている間に淀川さんが登校してきていた。  僕は迷った。始業まであと十五分。短い時間ではあるけれど、今なら彼女とふたりきりで話すことができる。  今朝受け取ったあの脅迫状のことが頭を(よぎ)った。『次はない』……このまま過去を掘り起こすために動き続けて、万が一僕の身に何か危険なことが起こったら?  ぶるりと全身に震えが走った。  進むべきか、立ち止まるべきか。どうすることが、僕にとっての最善策なのか。  その時、扉の影に隠れるように立ち尽くす僕に気づいた淀川さんがふっと後ろを振り返った。 「おはよう」  無表情ながら、穏やかな声で彼女は僕に声をかけてきた。何気ない朝の挨拶は、僕の背中を押すのに十分すぎるほどの力を秘めていた。 「淀川さん」  震える手を握りしめ、はじめて自分の意思でまっすぐ彼女と目を合わせた。 「何?」 「ちょっと、いい?」  僕が廊下へと誘い出すと、彼女は黙って立ち上がって僕の後ろをついてきてくれた。  中館と北館をつなぐ二階の西渡り廊下。人通りはそれなりにあるけれど、(せわ)しない朝の時間帯だ。僕らの存在に足を止める人はいない。 「また、これが僕の机に入れられていたんだ」  淀川さんと向き合って立った僕は、早速本題を切り出した。例の脅迫状を手渡すと、彼女は先週の金曜日と同じように目を大きくして心からの驚きを露にした。 「本当に、君が作ったものじゃないんだね?」  改めて問うも、彼女はやっぱり首を横に振って否定した。 「あたしじゃない」 「わかった、それは信じる。でも君は、僕に嘘をついているよね?」  彼女の表情に影が落ちる。意を決して、僕は核心を口にした。 「ねぇ、淀川さん……僕たち、幼馴染みなんでしょ?」  はっ、と淀川さんが息をのんだ。確信を得て、僕はゆっくりと語り始めた。 「この五年間、何度も同じ夢を見続けてきたんだ」 「夢?」  彼女は眉をひそめた。 「うん。小学生の女の子が僕の目の前に立っていて、僕に何かを伝えようとしてくる夢。その子が僕に何を伝えたかったのかはいつもわからないまま目が覚めるんだ。でも一週間前、君がこの学校に転校してきて、同じ二年六組の教室で君の姿をはじめて見た時、すぐに気づいた……あの夢に出てくる女の子だって」  一瞬だったけれど、淀川さんは何かを悟ったような顔をした。これまでの僕の行動に納得がいったのかもしれない。  彼女から何も言葉が上がらなかったので、僕はそのまま話を続けた。 「君はこの学校へ転校してきた時から僕の存在に気づいていたはずだ。なのに君は、僕に対してまるで初対面のように振る舞っている。おかしいよね、僕たち幼馴染みなのに」  淀川さんはきゅっと口を真一文字に固く結んだ。けれどその瞳は、ぐらりと大きく揺れていた。 「初対面のフリができたのは、僕が記憶喪失になってしまったことを知っているから。そうでなければ辻褄が合わない。つまり君は、僕が記憶を無くした原因についても必然的に知っているということになる。僕が調べたところによると、僕が記憶を無くした五年前の春、僕と君は同じ通り魔事件に巻き込まれてる……君は五年前、何者かに右腕を切りつけられた」  ついに彼女は、吐き出す息を震わせ始めた。表情を崩さないよう気を張っているみたいだけれど、僕にはわかる。見えてしまう。彼女の瞳はまた、隠しごとをする時の父や母の目と同じ、濁った色を宿していた。 「同じ事件現場で僕は頭を強く打ち、そのまま過去の記憶をすべて無くしてしまった。聡平が言うには、ただ頭を打ちつけただけでなく極度のストレスを感じたことで記憶が飛んでしまったんじゃないかって話だ。その事件に行き着いたことで、僕はほんの少しだけど昔のことを思い出した……僕の手には、君を切りつけたと思われるナイフが握られていた」  険しい顔つきで、彼女は静かに目を瞑った。テレビで見たことがあるけれど、咄嗟に目を瞑ったり瞬きが長くなったりするのは目の前の現実から目を背けたいという心理の現れなのだという。 「ねぇ、淀川さん。今僕の手もとにあるのは外から得た情報と断片的な記憶だけなんだ。肝心なことは何もわかってない。全然思い出せないんだ。五年前、君と僕との間に何があったのか。なぜ僕はナイフを握っていたのか。僕にとって……君はどういう存在だったのか」  声が震えた。先を訊くのは怖いけれど、ここで立ち止まるわけにはいかない。  改めて、僕は淀川さんの目を見て言った。 「頭が痛いのは我慢できる。体調を崩すのは仕方がない。でも、やっぱり大事なことを忘れたままでいることには耐えられないんだ。だから、どうか教えてほしい。もしも僕が君を傷つけてしまっていたのだとしたら、やっぱり僕は君にきちんと謝らなくちゃいけないよ。……どうしても話したくないっていうなら、僕との過去を周りに知られたくないっていうのなら、せめてその理由だけでも教えてもらえないかな?」  お願いします、と僕は誠実に頭を下げた。僕の気持ちだけでなく、彼女の心にも最大限の配慮をしてやらなければならない。それはいつも聡平が教えてくれることだ。目の前のことに一生懸命になってつい暴走してしまう僕は、そばにいる人の気持ちをないがしろにしがちなのだ。 「…………バカ」  下げた僕の頭に向かって、彼女は小さく吐き出した。 「そんなの、忘れたほうが幸せだからに決まってるじゃない」  え? と僕は頭を上げる。彼女の瞳に、うっすらと涙がにじんでいた。 「思い出さなくていいんだよ、君は。何もかも、忘れたままでいればいい」 「淀川さん……?」 「あの日のことを忘れられるなんて、こんなにも幸せなことってないよ。あたしだって忘れたい。でも、どう頑張ったって忘れられないの。……あんな過去、切り離せるなら切り離してしまいたい。腕の傷も、頭に焼きついて離れない光景も、全部なかったことにしてやりたいよ」  彼女は下唇を噛みしめた。けれど僕の胸の中には、彼女を慰めるための言葉は浮かばなかった。 「……そうかな」  気がつけば、僕は否定的なことを口にしていた。 「本当にそうかな?」 「え?」 「忘れてしまいたいほどつらい過去だったとしても、その過去があったからこそ、今の君があるんじゃない?」  ぴくり、と淀川さんは小さく眉を動かした。僕はふっと表情を緩め、日頃から思っていたことを口にする。 「うらやましいなって、ずっと思ってたんだ。僕と同じように十六年間生きてきた他のみんなには、ちゃんと十六年分の思い出がある。幼稚園の頃に何をしたとか、小学生の頃には家族でどこへ行ったとか……嬉しそうに昔話をする友達と違って、僕にはたった五年分の記憶しかない。確かにこの五年間はそれなりに楽しい日々を過ごしてきたよ。でもやっぱり、失った十一年分、僕は他の人と比べて中身のない人間なんだと思う。五年と十六年なんて、幼稚園児と高校生の差なんだよ。命の尊さは変わらなくても、人としての中身の重さが全然違う」  今が楽しければそれでいいと思う反面、どこか悔しさも拭いきれないところはあった。僕だって本当なら、十六年分の人生を背負って生きていくはずだったのに、と。 「たとえば君の話をしよう。僕と離れて暮らしたこの五年間を、もし君が僕と離れることなく同じ時間を過ごしていたらどうだろう? きっと今の君とは少し違う人格を形成していて、違う価値観を持っていて、違う友達と仲よくなっていたはずだ。ね? そういうことなんだよ。過去があるから、今があるんだ。僕と離れて過ごした五年間があったから、今の君がある。五年前の春に僕らが例の事件に巻き込まれていなかったら、今の君は絶対に存在しないんだよ」  淀川さん、と僕は改めて彼女の名を呼んだ。 「つらい現実から逃げることを僕は否定しない。そういう身の守り方があってもいい。でも、もし向き合えるだけの力があるのなら、きちんと向き合うべきなんだと思う。僕だって怖いよ。例の事件だけじゃない、昔の僕がどんな人間だったのか、今さらすべてを振り返るなんて恐怖以外の何物でもない。けどさっきも言ったとおり、過去があるから今があるのは僕も同じだ。そして僕は今、過去と真剣に向き合いたいと思ってる。君にはつらい思いをさせてしまうだろうけど、どうか手を貸してほしい。君の抱えているつらさや悲しみをすべて僕にぶつけてくれて構わないから。……僕が全部、受け止めるから」  僕らの視線は、しっかりと重なり合っていた。  こうして同い年の女の子と真正面から目を合わせたのは一体何年ぶりだろう。けれど今の僕には、少しも怖いという気持ちはない。僕は今、彼女から目を逸らすわけにはいかないのだ。 「…………変わらないね、全然」  やがて彼女は、ふわりと綺麗な笑みを湛えた。 「そういうまっすぐなところが危なっかしいんだよなぁ、君は」 「……え?」  クスクスと、彼女は楽しそうに笑った。彼女の笑う姿を見たのはこれがはじめてだった。……もっとも、僕が覚えていないだけの話ではあるのだろうけれど。  彼女の笑い声に、始業のチャイムが重なった。十五分なんてあっという間だ。 「おーい、小坂ー淀川ー」  その時、中館の校舎から米村先生の声が聞こえてきた。 「チャイム鳴ったぞー」  はーい、と僕らは声を揃え、教室に向かって走り出した。 「昼休みね」  と彼女は言った。 「わかった」  と僕は答えた。  ――昼休み。  昼休みになれば、彼女はすべてを打ち明けてくれるということか。  そうか……ようやく、すべてが明らかになるんだ。無くした過去を、取り戻すことが叶う時が来た!  怖い気持ちもありながら、今の僕の心は嬉しさが勝っていた。きっと彼女の笑顔を見ることができたせいだろう。もっとずっと、恐ろしい人だと思っていた。 「小坂」  彼女が先に教室内へと入っていくと、前側の扉の前に立っていた米村先生が彼女に続こうとした僕を呼び止めた。 「はい?」  後ろ側の扉に手をかけた状態で、僕は先生を振り返る。すると先生は早足で僕に近づき、廊下の窓際まで僕を引っ張った。 「槙野先生から聞いたぞ。……嫌がらせを受けているんだって?」  声を潜め、先生は険しい表情で尋ねてきた。しまった、つい舞い上がって脅迫状の件を槙野先生に相談したことをすっかり失念していた。 「あ、えっと……」 「いい、今は時間がない。昼休みに職員室で話を聞こう」 「えっ、昼休みですか?」 「何だ? 何か問題があるのか」 「……いえ、わかりました。行きます」  よし、と言って先生は僕の背中を叩き、教室へ入るとすぐにいつもの明るい調子で声を張り上げ始めた。  せっかく淀川さんから話を聞けると思ったのに、と僕はがっくりと肩を落とし、トボトボと自分の席へと戻った。
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