第六章 ただ君を守りたかった

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 あたしと和音ちゃんが息をのむのと同時に、六時間目始業のチャイムが鳴り響いた。結局理紀は戻ってこず、いよいよ不安な気持ちに押しつぶされてしまいそうになる。 「淀川、一緒に来い」  続々と自らの席へ戻りゆくクラスメイトたちの流れに逆らい、後藤くんは迷わず廊下へと飛び出した。 「弘海、おまえはオレと淀川が保健室へ行ったって先生に伝えてくれ」 「え? ……わ、私だけ残るの? 私だってリッキーのこと……!」 「心配すんな」  それまでずっと固かった表情をふっと緩め、彼は綺麗に、凜々しく笑った。 「オレが何とかする」  たった一言、それだけを和音ちゃんに告げた後藤くんに、和音ちゃんの顔つきが変わった。「わかった」と答えた彼女の瞳は彼の大きな背中をとらえ、心からの信頼の色を映していた。  六時間目の授業を抜け出したあたしたちは、保健室へは行かず、校舎の東隣、グラウンドの西端に設置されているクラブハウスへと向かった。男子と女子とで別々に設けられているそれのうち、あたしは後藤くんに続いて男子部棟にある野球部の部室へと足を踏み入れた。  男子部の部室へ入ったのははじめてだったけれど、思ったよりも綺麗に使われていて感心した。……まぁ、汗と土のにおいだけはどうにもならないところではあったのだけれど。 「どう思う?」  あたしを部室内へと促し、扉を閉めた後藤くんは、険しい表情でそう言った。 「ん?」 「オレの推理」  あぁ、とあたしは小さく相槌を打った。  彼の推理によれば、あたしたちの担任の先生である米村先生こそ、五年前、あたしと理紀を襲った通り魔かもしれないとのことだった。そして今、この学校のどこかに理紀を監禁している可能性があるという。  ――米村先生。  頭の片隅に、彼の顔を思い浮かべた。 「…………あり得ると思う」  確信はなかったけれど、あたしは後藤くんの推理に賛同した。 「米村先生、あたしが武蔵野から引っ越してきたって話をした時、自分も大学生の頃(ひがし)()(がね)()に住んでたんだって言ってた」 「近いのか? その東なんとかってところと、おまえや理紀が住んでた場所は」 「電車で一駅。武蔵野や小金井には大学や専門学校が多くて、そこら中に学生がうろうろしているようなところなの」 「なるほどな。年齢的にもドンピシャってか」 「それだけじゃない。理紀が受け取った例の手紙だってそうだよ」 「あぁ。あれについても米村の仕業だとすればいろいろと筋は通るな」  後藤くんはあたしの指摘にうなずいて同意してくれた。 「最初に理紀が手紙を受け取ったのは体育の授業のあと。米村なら自分のクラスの時間割は把握しているはずだし、担任なんだから無人の教室に入っていったって誰も不審に思わない」 「二枚目の手紙が入れられたのは早朝の出来事だった。教員である米村先生なら朝イチで学校に来ていたって不思議じゃない。生徒たちに見られず理紀の机に手紙を仕込む余裕はあったはず」  だな、と後藤くんは改めてうなずいた。  状況を整理すればするほど、米村先生が五年前の通り魔である可能性が高まっていく。同時に、理紀が姿を消したことについての不安がどんどん大きくなっていった。 「ねぇ、理紀は? 米村先生は、理紀のこと……?」  そう。単純に今の時間だけあたしと理紀を引き離したところで、放課後にはあの日の話をすることになっている。もし米村先生が理紀に記憶を取り戻させないために手段を選ばない人だとしたら、この先もずっと理紀があたしと話をできないようにしてしまっているかもしれない。  つまり、理紀は。 「落ち着け、淀川」  自分だって瞳を揺らしているくせに、後藤くんは一人前にあたしに言葉をかけてきた。 「闇雲に探すのは時間の無駄だ。理紀の行動を順に追ってみるぞ」  なるほど、正論だ。あたしはうなずいて、彼とともに昼休みの状況を確認し始めた。 「昼休みが始まってすぐ、理紀はひとりで職員室へと向かった。オレらの教室から近い西渡り廊下を通り、西側の入り口から職員室に入る。おそらくはそのまままっすぐ米村の机に向かったはずだ。だが米村はいなかった。淀川、おまえならどうする?」 「近くにいる他の先生に訊いてみる」 「なるほど、それも一つの手だよな」 「後藤くんは違うの?」 「オレならしばらくその場で待つかな。確実に約束しているわけだし、授業が長引いてる可能性を考える」 「待っても来なかったら?」  あたしの質問には答えず、後藤くんは黙って部室を出て南館の校舎内へと入った。どこへ向かうのかとあとを追うと、彼は南館一階、保健室前の廊下を通過し、西階段を上がって二階にある職員室入り口に一瞬だけ目を向けた。そのまま西渡り廊下を通って中館を抜け、もう一つ先にある北階へと入る。さらに階段を二階分上り、あたしたちは北館の四階にやってきた。特別教室の集まるこのフロアへ来たのは、あたしははじめてだった。  階段を上がって左手は他の校舎や別のフロアと違って袋小路地帯になっておらず、すぐに壁が迫っていて教室はない。当然右手に折れるしかなく、後藤くんは国語科準備室、社会科準備室と順に前を通り過ぎ、あたしたちが上ってきた西階段とは反対側である東階段寄りの一室、数学科準備室の前で立ち止まった。 「おまえはまだ知らねぇだろうが、この辺りにある部屋は〝準備室〟なんて立派な名前がついてるけど、実際は先生たちの隠れ家みたいなもんなんだ。物理室や化学室と違って授業で使われることはないし、何か特別な教材が置かれているわけでもない。要するに、ただの空き部屋同然ってわけだ」  あたしにそう説明しながら、後藤くんはコンコンと扉をノックした。中からの返事はない。先生たちは皆授業で出払っているのだろう。後藤くんは迷いなくガララッと扉をスライドさせた。  北館は中館・南館と違って校舎そのものが少し小さく造られている。ここ数学科準備室の中もあたしたちの教室の半分ほどしかないというのに、書棚にソファ、ローテーブル、マルチラック、それからデスク二台と、なかなかに大きな家具類が所狭しと並べられている。通路がかなり狭くなっているので、背の高い後藤くんは窮屈そうにしながら部屋の中へと足を踏み入れた。 「職員室で米村に会えなかった理紀は、米村を探し求めてここへ来た」  再び、後藤くんの独り言が始まった。 「理紀に限らず、この学校の生徒なら先生たちが職員室とは別に隠れ家を持っていることは知っている。たとえば体育の先生たちが体育館の二階にある体育教官室に入り浸っているように、目的の先生に職員室で会えなければ、各教科ごとの隠れ家にいるだろうと考えるのは自然な流れだ」  書棚とラックの隙間、デスクの下など、後藤くんは捜し物をするように身を屈めながらあちこち見て回る。どこかに理紀が監禁されていないか確認しているのだ。 「だが、ここでも米村には会えなかった。米村は理紀とおまえを引き離すだけでなく、理紀が人目につかない場所でひとりきりになることを期待した……人知れず理紀の身柄を拘束するために」  後藤くんは部屋を出る。数学科準備室の斜向かいにはトイレがあり、「おまえは女子トイレを」と指示された。中に人が隠れていないか見てこいという意図だとすぐに察し、あたしは足早にトイレへと入ってすべての個室と掃除道具入れを確認する。けれど理紀はおろか他の誰の姿もなく、トイレの前で後藤くんに対し首を横に振って結果を報告した。彼の表情は険しいままで、彼のほうも空振りだったことがわかる。 「北館の三階・四階はすべて特別教室だ。北館の低階層や中館のようなホームルームの集まるフロアと違って、この辺りは日常的に人通りがかなり少ない。特に四階なんて生徒が滅多に足を踏み入れる場所じゃないし、文化部が部室として使うような部屋もないから、よからぬことを企むヤツが選ぶ場所としてはそこそこ適していると言える。そしてほとんど使われることのないこのトイレになら、短時間であれば無理なく身を隠していられるはずだ。理紀がひとりで数学準備室から出てくるところもバッチリ見られる」  トイレの前から離れた後藤くんは、数学科準備室の隣にある地学準備室、そして地学室の前を通過し、トン、トン、とゆっくり階段を下り始める。辺りをじっくり観察するよう視線を巡らせながら歩く彼は、踊り場に差し掛かったところでその足を止め、ふっと膝を折ってしゃがみ込んだ。 「見ろ」  彼が指を差した先。腰を屈めて見てみると、うっすらとだけれど赤い絵の具がこすれたような跡があった。  美術室は確か南館の三階だ。こんなところで絵の具がこぼれるはずがない。  だとすれば、この跡は。 「後藤くん……!」  あたしの言わんとすることは彼の思考と合致しているらしく、彼の目にはいよいよ焦りの色が浮かび始めた。  床に残された赤い染み。拭き取られたかのようにこすれた跡。  考えるまでもない。理紀の血だ。  今しがた下りてきた階段をもう一度駆け上がり、後藤くんはすぐ左手にある地学室の前で立ち止まった。 「大学受験で選択する生徒がほとんどいないってことで、この学校じゃ地学は教えられていない。当然専門の先生もいねぇから、準備室を含めてこの部屋の鍵が開けられることは滅多にない」  地学室、そして準備室と後藤くんは順に扉が施錠されていることを確認する。わずかな時間逡巡したのち、彼は階段のすぐ隣・地学室の扉をガンガンガンッとやや大きく叩いた。 「理紀! いるのか!」  もう一度彼は扉を叩く。「いたら返事してくれ!」と部屋の中に向かって問いかけるも、返事はおろか、人の気配すら感じない。 「どうしよう」  絞り出した声が震えた。全身から血の気が引いていく。 「理紀……まさか……!」 「バカ野郎! 縁起でもねぇこと考えてんじゃねぇ!」  後藤くんがぴしゃりと言い放った。けれど彼の声からもまた、さっきまでの自信の色は窺い知れない。 「くそ、ここじゃねぇのか……?」  ガンッ、と彼は握った右手で再び扉を叩いた。そのままコツンと扉に額を寄せる。  焦っているのか、吐き出す息があきらかに荒くなっている。肩がかすかに震えていた。  彼の姿に、体の奥から湧き上がってきたはずの熱がすぅっと一気に冷めていく。こういう場面に遭遇すると、自分だけは冷静でいなくちゃといつだって思ってしまう。 「落ち着いて、後藤くん」  小さく丸まる彼の背に、あたしはそっと手を触れた。 「君は正しい。あたしも、理紀はここにいると思う」  顔を上げてあたしを振り返った彼に、あたしはまっすぐそう言いながらブレザーの胸ポケットに入れている生徒手帳を取り出した。 「さっき踊り場で見たあの赤い染み……あれが本当に理紀の血なら、理紀は犯人に頭かどこかを殴られ、犯人の手によって今もどこかに監禁されていると考えられるよね」  生徒手帳の表紙の裏には、三棟ある校舎内の各教室の配置、および体育館やクラブハウスなどの付随施設の場所を記した略地図が掲載されている。まだ校内のつくりに詳しくないあたしは、その地図を見ながら話を進めた。 「踊り場で倒れた理紀を運ぶのに、確かに三階なら階段を下るわけだから体力的には楽だけど、二階には一年生のホームルームがいくつかある。生徒たちが仮に三階には用がなかったとしても、人の気配がするほうへわざわざ意識を奪った生徒を担いで近づいていくとは思えない」 「だよな。それに三階の特別教室は物理室や化学室、それからコンピュータ室と、授業でよく使われる部屋ばかりだ。うっかり他の先生に見つかる確率は四階よりもずっと高い」 「ねぇ、特別教室の鍵は職員室にあるの?」 「あぁ。米村に限らず、教職員ならこっそり持ち出すことはできるはずだ。たぶん今でも持ってるぜ? 何かの間違いで誰かがここの扉を開けないとも限らねぇからな」 「どうする? すぐに米村先生のところに行く?」 「いや、今オレたちが話してるのはただの憶測に過ぎねぇ。何か明確な証拠でもありゃ問い詰めることもできるんだが、今のオレたちにはあいつと対等に渡り合うための武器が何もない」 「じゃあどうすればいいの? このままじゃ理紀は……!」 「大丈夫だ。言ったろ? オレが何とかするって」  地学室の扉からそっと離れ、後藤くんはぐっと顔を上げてあたしを見た。 「武器がねぇなら、オレらの手で作ればいいだけの話だ」  そう高らかに宣言した彼の表情は、自信に満ちあふれていた。
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