第六章 ただ君を守りたかった

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   ◇◇◇  遠くで、誰かに呼ばれているような気がした。  かすかに聞こえてくるその呼び声は、耳にすぅっと馴染んでくる。毎日のように聞いている声なのだ、きっと。言いようのない安心感に包まれる。  ゆっくりと、重いまぶたを開く。ぼんやりと目が霞み、景色が少し白んで見える。  ここがどこなのかは判然としない。目の前には大きめの机と角張った木の椅子。座面が平らでずっと座っているとおしりが痛くなるその椅子は、確か美術室のものと同じだ。けれど机の雰囲気が違う。美術室の机は椅子と同じ木製のものだったはずなのに、今ここにあるのは白が基調で、理科系の特別教室で使われているもののようだ。  化学室ではない。化学室の机にはそれぞれガス栓がついていたはず。それに確か机の天板の色は白ではなく黒だった。  なら、物理室か? ……いや、どうも雰囲気が違う気がする。ここは一体どこなのだろう。  声を出そうと口を動かしてみたけれど、すぐにそれが叶わないことを僕は悟った。僕の口には、布のようなものが噛まされていた。  ――どうなってる……?  今僕は体の右側を下にした状態で床にごろんと寝そべっている。身を起こそうと体を捩ってみたけれど、それもまたうまくいかなかった。両手が背中側へと回され、紐か何かできつくしばられているようだ。足首も同じく二本揃えて縛られている。 「……ッ!」  少し体を動かしたら、今度は頭に鋭い痛みが走った。そうして僕は、ようやく自らの身に降りかかった事実を思い出した。  そうだ。昼休み、米村先生を訪ねて数学科準備室へと向かったけれど、そこでも先生には会えなかった。仕方なく職員室へ引き返そうとしたところ、後ろから何か固い物で殴られたような強い衝撃が頭を襲ったのだ。  口には(さる)(ぐつわ)。両手足は縛られている。  ――あぁ、そうか。  ついに状況を理解した。  僕は今、誰かに監禁されているのだ。この特別教室の中で。  痛みを押し、芋虫のようににじにじと体を動かしながら床を這う。机と机の間から遠く黒板と教卓が見える位置まで移動して、壁にかかった時計で時間を確認する。三時二十分。ちょうど六時間目が終わってみんなが部活を始める頃だ。頭を殴られたのは昼休みのことだったから、僕はまたずいぶんと長い間気を失っていたらしい。  その時、ガララッと教室の扉が開かれた。びくっ、と僕は体を揺する。  扉が閉まる音、そしてペタペタとスリッパが床をこする音が室内に響き渡る。机がちょうど影になって、足音の主が誰なのかわからない。 「――なんだ、起きてたのか」  足音が止まり、代わりに声が聞こえてきた。教卓の前で立ち止まったその人は、目を開けて床に転がっている僕を見て、たった一言、そう言った。 「…………!」  入ってきたのは、担任の米村先生だった。  長い足をゆっくりと動かし、先生は僕のほうへと近づいてくる。僕を見る目つきがいつもの穏やかさからはかけ離れたひどく冷ややかなもので、僕の知っている米村先生とはまるで別の人であるように見えた。 「ごめんな、痛い思いをさせて」  そっと僕の目の前にしゃがみ込んだ先生は、意味深にすぅっと目を細めた。 「だが、おまえが悪いんだぞ? 小坂……おまえが昔のことを思い出そうとするから」  はっ、と僕は息をのみこんだ。全身が一気に強張り、ぴくりとも動くことができない。  うまく思考が回らなくてもわかる。  やっぱり淀川さんじゃなかったんだ。  この人が、米村先生が、僕が過去の記憶を取り戻すことを阻止しようとしてきた人――。 「その顔」  米村先生の首がコクンと右に倒れる。 「本当に覚えていなかったみたいだな、俺のこと。そして今でもまだ、あの日のことを思い出せていない……違うか?」  ――あの日の、こと。  背中に嫌な汗をかく。あの日のこと、というのはおそらく、僕と淀川さんが巻き込まれた例の通り魔事件のことを指している。  とすれば、この人は。  この人が、あの時の……? 「――! ――ッ!」  喉の奥で声を絞り出す。どうして、助けて、と。けれど猿轡に阻まれて、僕の叫びは声にならない。 「騒ぐなよ。廊下の外に聞こえちまう」 「――ッ!」 「黙れっつってんだろ」  シャキン、と何か金属のこすれる音がした。次の瞬間、首筋に冷たい感覚が走る。  戦慄した。  先生は僕の首に、刃の鋭いナイフをあてがっていた。 「なぁ小坂。俺、ずっと怖かったんだよ」  先生の口調はもはや教師のものではなくなっていた。まるで友達を相手に昔話を聞かせるような、そんな調子で先生は言葉を紡いでいく。 「おまえがこの高校に入学してきて、俺が数学の授業を受け持つようになってさ。最初は気づかなかったけど、日が経つにつれて、おまえのことがどこかで見たことのあるヤツのように思えてきてな。知り合いのうちの誰かにでも似てるのかなって思った時もあったけど、どうもそうじゃないような気がどこかでしていた。そうしたら、先週だ。始業式の日、教室で突然倒れたおまえから詳しく話を聞けば、昔の記憶を失っているなんて言うじゃないか! それも、おまえが記憶を無くしたのは小六の春……まさにあの事件の時とぴったり時期が一致する。おまえからこの話を聞かされたあの瞬間だよ、俺がおまえのことを思い出したのは……こいつはあの時のガキだ、俺の取り落としたナイフを奪って、俺の喉めがけてまっすぐ振り下ろしてきたあいつだ、ってな」  僕は目を見開いた。  頭の中で、閃光のような熱い何かがほとばしる。  先生が語った過去の情景が、小学生の頃の僕の姿が、今、脳裏に鮮明に蘇った。 『だからね、理紀』  隣を歩く女の子が、説教じみた口調で言った。 『少しでも速く走りたいと思ったら、今のままではダメなんだよ。膝を高く上げる、背中を丸めないように前傾姿勢をとる、肘を伸ばさない……あたしが教えたこと、どれか一つでも実践してみたの?』 『あのねぇ。簡単そうに言うけど、君が思ってるほど僕にとっては簡単なことじゃないんだってば』 『ほら、すぐそうやって言い訳する。せっかく教えてあげてるのに』 『そういうのを〝親切の押し売り〟って言うんだよ』 『君こそそうやって難しい言葉で誤魔化して現実から目を逸らそうとするじゃない』  持って、と彼女は体操服の入った手提げかばんを無理やり僕に押しつけてきた。イヤイヤながら受け取ると、彼女はトレーナーのおなかのポケットから赤いあやとりを取り出して、ささっと慣れた手つきで何やら形を作り始めた。川、はしご、(ほうき)。彼女はイライラするとすぐにひとりあやとりをし始める。亡くなったお母さんが優しくなだめてくれているような気になれるのだそうだ。  小学校からの帰り道。しばらく無言のまま並んで歩き、やがて彼女とは住宅街の交差点で道を分かつ。 『次の授業では絶対実践してよね。まずは膝を高く上げるところから』 『はいはい、わかりました。努力します』  僕の返事に不服そうな顔をちらりと向けて、彼女は『じゃあね』と角を曲がっていった。『また明日』と言った僕はそのまま交差点を直進する。 『あ』  彼女と別れてしばらく経ってから、僕ははたと気がついた。しまった、彼女に持たされていた手提げかばんを返し忘れた。  はぁ、とやや大袈裟に息をつき、僕はくるりと方向転換して彼女の曲がっていった角へと向かって駆けだした。 『おーい、す…………?』  彼女が消えていった角を曲がり、彼女の名前を呼ぼうとして、僕は言葉を失った。  五メートルほど先で、彼女は僕に背を向けて立ち止まっていた。彼女の肩越しに、彼女よりもずっと大きい見知らぬ男の影がある。  男は、右手を高く振り上げている。そしてその腕を、彼女めがけて一気に振り下ろした。 『キャッ!』  彼女は身を屈めながら短く悲鳴を上げた。そのまま道路に倒れ込む。  男の振り下ろした腕の先で、真っ赤な何かが飛び散った。道路と、民家を囲うブロック塀にその赤い何かの雫がぴちゃりと付着する。  それが彼女の腕から流れ出た血であると気づくまで、僕はずっと、息を止めたままでその場に立ち尽くしていた。 『……………………』  目の前に、ぐっと身を縮こまらせて道路に倒れている彼女がいる。左手で右の二の腕を押さえ、真っ赤な血に染まっていた。  彼女の向こう側で、大男が突っ立ったまま彼女を見下ろしていた。マスクをつけていて顔はよく見えないけれど、興奮しているのか、肩を大きく上下に揺すっている。  彼の右手には、一本のナイフ。鋭い刃の先からは、深紅の鮮血が(したた)り落ちている。  決して冷静ではなかった。冷静ではなかったけれど、目の前に広がる光景についてどうにかこうにか理解した。  男の手に握られたそれで、彼女は腕を切りつけられた。それも、僕の見ている前で。  ――ダメだ。  ここで立ち止まっているわけにはいかない。彼の手にはまだナイフが握られたままだ。  何とかしなければ。咄嗟に思った。僕が何とかしなければ、あのナイフによる狂気の沙汰が再び彼女に襲いかかるに違いないと。 『ぅわああああああああああ!!』  僕は走った。彼女に手渡すはずだった、体操服の入った手提げかばんを投げ捨てて。  この非常時に、なぜか僕は彼女の言葉を思い出していた。速く走るためには、膝を高く上げることが重要なのだと。  できる限りのことをした。たぶんいつもよりもずっと速く走れた。  大男と目が合った。彼はようやく僕の存在に気づいたようで、でも彼が気づいた時には僕の右肩が彼の腹部にめり込んでいた。  僕の体当たりを受け、男は道路へと仰向けに倒れ込んだ。僕のようなチビの体当たりでは普段ならびくともしないのだろうけれど、女の子を切りつけて精神状態が不安定だったせいか、彼の足もとはいとも簡単に崩れてくれた。  倒れた衝撃で、彼の手からナイフが(はじ)け飛んだ。ブロック塀の前まで転がったそれは、コツンと音を立てて壁に当たり、道路に落ちた状態で動きを止める。  彼の上に一緒になって倒れ込んでいた僕は、咄嗟に転がったナイフのもとへと駆ける。一瞬迷って、けれど僕はそれを拾った。  折りたたみ式のナイフだった。塀に当たった衝撃で刃が中途半端に折りたたまれてしまっていて、僕は左手で刃の先をつまみ、カチッとまっすぐになるようゆっくりと伸ばす。 『やめて!』  その時、彼女の声が僕の背後で響き渡った。 『理紀! お願い! やめて!』  振り返ると、彼女が右腕を押さえたまま頭を上げ、必死の形相で僕に呼びかけていた。 『ダメ、それを離して!』  彼女の悲鳴にも似た声が響く。それ、って何のことだろう。……あぁ、このナイフのことか。  バカな。今これを手放すわけにはいかない。だって僕は、次なる狂気を食い止めなければならないのだから。  彼女の声を無視し、男のほうへと向き直る。腰を抜かしてしまっているのか、男は目を見開いたまま僕の姿を凝視していた。 『お願い! 理紀……やめて……!』  背後で彼女の声がする。絞り出されたその涙声が、僕の焦りに拍車をかけた。  このままではダメだ。また彼女が襲われる。  何とかしよう。僕が何とかしなければ。  男に近づく。男は『ひっ』とかすかな悲鳴を上げ、ついた尻を引きずりながら僕から離れようとする。  やらなきゃ、やられる。  ――()らなきゃ、()られる。  男の顔の真横に立つ。見下ろした彼の目がこれ以上開けないほど大きくなった。マスクの中で何かを言ったようだけれど、僕の耳には届かない。  手にしたナイフを握りしめる。強く。絶対にこの手から離さないように。  左手を添え、僕は揃えた両腕を振り上げた。切っ先が目指す場所は、男の、喉。  ――僕が。  僕が彼女を、守るんだ――! 『理紀ッ!!』  一気に腕を振り下ろそうとしたその時、彼女の叫び声が轟いた。はっ、と僕は動きを止める。 『くそっ』  腕を上げた状態で石のように固まってしまった僕に対し、今度は男が動き出す。するりと僕の横から抜け出して立ち上がった彼は、長い足で僕の体を力いっぱい蹴り飛ばした。 『あぁッ!』  チビで軽い僕の体はいとも簡単に吹っ飛ばされ、一瞬宙を舞ったかと思えば、次の瞬間にはブロック塀に叩きつけられていた。  全身に強い痛みが走る。それっきり、僕の意識は途切れた。
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