第六章 ただ君を守りたかった

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「…………っ」  思い出した。  全部、全部思い出した。  僕と彼女の関係も。あの日、何が起こったのかも。  そして米村先生が、あの時の恐怖の元凶だったということも。  聡平の言うことは間違いじゃなかった。  僕が記憶を無くしたのは、ただ頭を強打したせいじゃない。あの日の恐怖を、僕のしようとしたことを、二度と思い出したくないと心の底で思っていたからだったのだ。 「今思い出してもゾッとするね」  額に冷や汗をにじませながら、先生は話を続けた。 「俺は別に、あの子を殺そうとしたわけじゃなかった。俺はただ、自分の心の安定を求めてただけだ……小さな女の子が傷つく姿を見ることで、俺は(すさ)んだ自らの精神を落ち着けることができると知っていた」  僕は思わず眉を寄せる。今のはどういう意味だろう。  僕が疑問に思ったことを悟ったのか、先生は少しだけしゃべるスピードを緩めて語り始めた。 「昔……あの子を傷つける半年くらい前だ。俺は東京の大学を離れ、地元である名古屋で小学校の教育実習を受けていた。その時俺の指導を担当してくれた先生との相性が最悪で、半ばいじめのような仕打ちをネチネチネチネチこっぴどくやられてな。あの頃の俺は、完全に自我を失ってた。課題は多いし、授業の準備は大変だし、授業をしたらしたでほとんど難癖みたいなダメ出しをいくつもいくつもくらってさ。生徒たちのことも最初はみんな可愛くて仕方がなかったけど、実習が始まって一週間が経つ頃には、子どもたちがみんな俺にまとわりついて離れない小さな鬼のように見えていた」  過去を振り返る先生の瞳は、これまで見たことないほどぐらぐらと大きく揺れていた。吐き出す息もいくらか苦しそうで、思い出すのもつらい時間を過ごしていたことは容易に理解できる。 「自分の心がどこかおかしいことには気づいてた。だが、教師になって子どもたちにバスケを教えることはずっと昔から変わらない夢だったし、ここで諦めてたまるかって思った。……そこから先の記憶ははっきり言って曖昧だ。なぜナイフなんか持っていたのかよくわからないし、もともと何をするつもりで手に入れたのかも覚えがない。だが俺はいつの間にか、それをスーツの内ポケットに入れておかないとまともに息をすることもできない状態にまで陥っていた。俺にとってそのナイフは、どんな薬よりもよく効く精神安定剤だったんだ」  先生の告白に、僕はつい同情してしまった。  誰にでも優しくて、頭もよくて、授業だってとてもうまい。そんな米村先生が、こんなにも精神的に追い込まれた過去を抱えていたなんて。 「で、実習も残り三日になった時だ。夕方、学校から実家へと帰る途中、塾だか習い事だかの帰りだったのかな、ひとりの女の子が向かい側から俺のほうへと歩いて近づいてきた。その子の背後に、見えたような気がしたんだよ……俺のことを散々いたぶって楽しんできた、実習先で俺の担当だった女教師の影が」  先生は諦めの混じる吐息を少し長めに吐き出した。そして僕は、すべてを悟った。  続きを語られずともわかる。  先生は、その子をナイフで切りつけたのだ。  その子の背後で陽炎のように立ちのぼった、憎き女性の影を切り裂くために。 「自制心は働かなかった。気づいた時にはその子が足もとに転がって泣いていた。……俺は咄嗟にその場から逃げ出した。でも、不思議と怖いとは思わなかったんだよな。むしろ逆で、ずっと心にかかってた負荷がすぅっと消えてなくなっていくような感覚だった。……楽になれたんだ、すごく。ぎゅっと縛り付けられて身動きが取れなかった自分が、大きく解き放たれていくのがわかって嬉しくなったよ」  先生のこぼした笑みはひどく不格好だった。歪んだ心が、壊れた精神が、普通に笑うことを許さないのだ。 「運がよかったのか、その時の女の子は俺の実習先である小学校の生徒じゃなかった。目撃者もいなかったみたいで警察が俺のところに話を聞きに来ることもなく、俺は二週間の実習を終えて東京へと戻った。でも、名古屋から離れたところで俺の心がもとの形を取り戻すことはなかった。それからも四六時中ナイフを手もとに置いておかなきゃいられなかったし、大学や家の近くで小学生の女の子を見かけるたびに切りつけたい衝動に駆られた。つらい日々から解放される方法を知ってしまったからな。俺はいつだって、楽になりたい、楽になりたいと思い続けてきた」  二週間に及ぶ地獄のような毎日が、ひとりの人間をどうしようもなく壊してしまった。そしてその壊れた心を引きずって起こしたたった一度の過ちが、先生の心をさらに締めつけて止まないのだ。 「それから約半年後……本当に偶然だったんだ。あの日の前日に当時付き合ってた女とケンカしてイライラしてた上に、ひどい風邪までひいちまってさ。くしゃみは止まらないわ頭は痛いわで大学の授業に出るのを諦めたくらいだった。外に出るのすら億劫だったけど、さすがにつらくて駅前の薬局へ薬を買いに行ったんだ。そうしたらおまえと、あの女の子に出くわした」  先生と視線が重なり、ゾクリと背筋に悪寒が走る。あの日の出来事が脳裏を過り、スッと血の気が引いていく。 「何度も言うようだが、殺すつもりはまったくなかった。その日はとにかくイライラしてて、あの女の子が名古屋で切りつけた女の子の面影と重なって見えたんだよ。痛む頭の片隅で、俺は即座に思った……この子を傷つければ、また俺は楽になれるって」  現実から目を背けるように、僕はぎゅっと目を閉じた。そんな理由で……先生のイライラを晴らすためだけに、彼女は傷つけられたというのか。 「無意識のうちにナイフを握っていたよ。おまえがすぐ近くで見ていることになんて少しも気がつかなかった。焦ったよ……おまえの姿を見つけた瞬間、体がまるで動かなくなったんだ。突進してきたおまえを避けることも、その場から逃げ出すこともできなかった。声を上げることさえできない。頭が真っ白になった。だが、おまえが俺にナイフを振り下ろそうとしてきたところでようやく我に返った。このままじゃ殺される、こんなところで死にたくないって思ったんだ。そこからはとにかく逃げることだけを考えた……ほとんどパニック状態だったよ。まさかおまえが頭を打って記憶喪失になっているなんてな……思いもしなかった」  事の一部始終を語り終えた先生の表情は、むしろ清々しささえ感じられるほど澄みきっていた。ずっと心に秘めてきたことを吐き出して、肩の荷が下りたのだろう。  方や僕は、ここでもまた大きな勘違いをしていたことに気づかされた。  あの時、僕は咄嗟に先生を殺さなければと思った。先生は彼女のことを殺すつもりなのだと思っていて、こっちから攻撃しなければいつまた先生が彼女に襲いかかるとも知れないと考えたのだ。先生にはまるでその気がなかったというのに。  事実、僕は拾ったナイフを先生の喉めがけて振り下ろそうとした。彼女が止めてくれなければ、先生が僕のことを突き飛ばしてくれなければ、僕は今頃、思い込みによる勘違いで人殺しになっていたところだった。  そういえば、と僕はまた少しぼんやりと昔のことを思い出す。  昔から僕はそうだった。テスト問題の序盤でつまずいてしまい、時間に追われて焦るばかりにものすごく簡単な問題で計算ミスが出てしまうとか、友達が『オレんち、段ボールハウスだから!』とあまりにも真剣な顔で言うものだから、つい素直に信じてしまうとか。  時間がない、友達の顔が真剣……そんな目の前の事象をすべて鵜呑みにしてしまい、思い込みに囚われて現実を正しく理解することができなくなる。聡平の言葉を借りれば、僕はどこか思考が短絡的なのだ。A=B、B=CならばA=Cというように段階を踏んで考えていけばいいものを、A=Bとわかった時点ですぐにA=Cだと思い込んでしまう。B≠Cという可能性を考慮しないのだ。 「でも」  再び先生が口を開いた。 「おまえに殺されかけたことで、このままじゃダメだって思ったんだ。自分の心を保つために誰かを傷つけ続ければ、いつか自分にすべて跳ね返ってくるんだって。……警察が来たら素直に認めようと思ってた。でも、いつまで経っても俺が逮捕されることはなかった。悪いことをしたとは思ったけど、バレていない犯罪をどうして自分から暴露する必要があるのかって、ついそんな思いに囚われちまった……どうしても、自首する気にはなれなかったんだ」  先生は、僕の首筋に当てていたナイフを握る手に力を込めた。 「おまえがあの日のガキだってわかった時から、おまえの行動は逐一監視させてもらったよ……今さらバレるわけにはいかなかったからな。小坂……おまえには本当に悪いと思ってる。だが、おまえはいろいろと知りすぎた……このまま生かしておくわけにはいかない」  先生の目は真剣だった。この人は今、本気で僕の喉を掻き切ろうとしている。  声にならない声を上げ、必死に首を横に振る。お願い、助けて、殺さないで……どれだけ叫んでも、先生には届かない。 「――やめろッ!!」  その時、ガララッと部屋の扉が開く音と誰かの声が響き渡った。 「後藤……!」  サッと立ち上がった先生は、目を大きくし、そっとその名前を口にした。  バタバタッと複数の足音が室内を駆ける。教卓の前、倒れている僕からでも見える位置に現れたのは、聡平、弘海さん、そして。 「理紀……!」  僕の名前を呼んだ、淀川鈴子さんだった。
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