第一章 記憶のない僕

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 ――ずっとひとりで考えてきたことだった。  僕という人間は、小学校六年生になるまでどのような生活を送ってきたのか。記憶を失ってしまうほどの衝撃は、一体どのようにして僕に襲いかかったのか。  今でこそ〝小坂理紀〟という名を与えられて生きているけれど、結局のところ、僕は本当の僕が誰であるのかを知らない。  生まれ故郷から母の生家がある名古屋へと越してきて、過去の僕を知っているらしい人たちは家族だけ。その家族でさえ、僕自身には本当の家族であるかどうかの判断ができないし、誰も僕が何者であるかは教えてくれない。  僕はただ、五年前に与えられた名前と環境を受け入れて生きていくことしかできないのだ。  誰のことも、自分自身のことさえもまともに信じられず、心の奥底に不安を閉じ込めたまま、この五年間を生きてきた。  唯一信じてもいいのかなと思えた例外的存在が、今僕の目の前に立っている親友・聡平だ。聡平だけは僕に嘘をついたことがないし、この先もきっと嘘をつくことはない。  なぜなら彼は、何よりも嘘が嫌いだから。  彼が小学校四年生の頃、それまで順風満帆だった彼の人生が、大きな嘘によってぐちゃりとねじ曲げられてしまったから。  だから彼は、自らの過去を答えられなかった小学生の頃の僕に対し、『嘘つきは嫌いだ』と言ったのだ。  やがて聡平は僕から目を逸らし、「すまん」と小さく謝った。 「オレが間違ってた。おまえは今のままでいい」 「謝らないでよ。僕だって、君のことはよくわかってるつもりだ。……隠し事をひどく嫌う君だからこそ、僕の過去を知りたがるんだってことも」  聡平の視線は戻ってこない。静かに一度目を伏せて、彼は小さく息を吐き出した。 「……勘違いすんなよ?」  ズボンのポケットに両手を突っ込み、ようやく聡平の瞳が僕をとらえた。 「昔のおまえがどんな人間だったとしても、オレはおまえの友達をやめるつもりねぇから」  今度は僕のほうがはっとさせられた。まっすぐ胸に突き刺さる一言に嬉しさと感動を覚えつつ、僕はつい、意地悪な一言を紡いでしまう。 「僕が殺人犯だったとしても?」 「別に構いやしねぇさ。今のおまえがそうでなければ」 「都合よく記憶を無くして、改心さえしていないのに?」 「おまえ、人を殺したいと思ってんのかよ?」  質問に質問で返されて、「まさか」と僕は笑った。 「一度も思ったことないよ。少なくとも、今の僕は」 「なら、問題ない」  聡平も笑顔を見せ、「安心しろ」と言った。 「もしも殺人犯だった頃の記憶を取り戻して、今のおまえがもう一度人を殺そうとしたら、そん時はオレが止めてやるからよ」  力強く言葉を紡いだ彼に、僕は笑って「ありがとう」と伝えた。できることなら、そんな未来は訪れないでほしいと思う。 「……ってか」  いつもどおりのどこか飄々とした顔に戻った聡平は、鼻で笑いながら言った。 「そもそも、小学生が殺人犯ってだいぶ可能性の低い話じゃね?」 「だね。僕もそれはちょっと思った」  まったくないかと言われれば疑問の残るところではあるけれど、笑い飛ばせるくらいには低い確率だと思う。 「さて。どうする? 理紀。オレはそろそろ教室に戻って米村に報告してくるけど」 「僕も戻るよ。聡平と話してたらだいぶスッキリした」  そうか、と言う聡平に続いて、僕はベッドを降りた。聞き耳を立てていたであろう養護の先生には僕の記憶についての話を秘密にしてほしいとお願いし、僕らは揃って二年六組の教室へと戻った。二時間目のホームルームが始まってから、すでに三十分が経過していた。  教室に戻ると、僕らが保健室に行っている間に決まったらしい我が二年六組の室長が、教壇に立って各種委員会の役員決めを取り仕切っているところだった。部活動への参加は任意だが、委員会については全員が必ずどこかに所属する決まりになっている。  聡平に続き、僕は教室の後ろの扉から室内へと入った。  (くだん)の彼女――淀川鈴子さんの席は廊下側の一番後ろ、扉を入ってすぐの位置だった。自分の席へと戻るためにはどうしたって彼女のすぐ背後を通り過ぎなければならず、僕は意識して彼女を視界に入れないよううつむいて歩いた。 「小坂」  僕の姿を見つけるなり、米村先生が狭い通路の間を縫って僕のもとへとやってきた。  バスケ部の顧問とあって一八〇センチ以上身長のある彼は、少し動くだけで無駄に目立ってしまう。室長による議事進行の妨げにならないよう気を遣って静かに近づいてきたつもりだろうが、三十分前の僕の急変も相まって、クラス中の視線が僕らのもとに集まってしまった。  自らの席についている僕の脇に、先生はそっとしゃがみ込んだ。 「もう大丈夫なのか? あとで様子を見に行こうと思っていたんだが」 「すみません、ご心配をおかけしました。もう平気です」 「本当か? あまり顔色がよくないぞ」 「大丈夫です、本当に」 「そうか……」  納得していない様子ではあったけれど、先生は一度うなずいてから改めて僕を見た。 「帰りのホームルームが終わったら職員室へ来てくれ。少し話がしたい」  なんで、と思わず声を上げそうになる。しかしよくよく考えてみると、確かにさっきの僕の急変は誰の目から見てもあきらかな異常事態だった。僕ら生徒の身を預かる高校の教員としてはやはり気がかりなのだろう。既往歴のある生徒の場合はなおさらだ。……まぁ、僕の場合は病気というわけではないのだけれど。 「わかりました」  素直に答えると、先生はもといた場所――前側の扉の前に置かれたパイプ椅子――へと静かに戻っていった。 「おい」  即座に、僕らの会話が丸聞こえだったであろう聡平がツンツンと背中をつついてきた。 「覚悟しといたほうがいいぞ、理紀」  振り返ると、聡平はいやに真剣な目をして言った。 「絶対聞かれるぜ? 頭痛の原因」 「だろうね」 「どうすんだよ、正直に答えるのか?」 「…………」  さて、どうしたものか。  高校入学時に提出する書類の既往歴欄は空白にしていたはずだ。もちろん、記憶喪失の件も伏せてある。それなのにあれほど派手に体調不良を訴えれば、原因を追及されないはずがない。あの時聡平が先生に告げた『こいつのことはわかっている』という言葉を先生が覚えていたとすれば、僕が昔から頭痛に悩まされていることはすでに気づかれている可能性もあるだろう。  うまい言い逃れを考えるべきか、記憶喪失であることを打ち明けてしまうべきか。  正直なところ、僕は過去の記憶がないことについてあまり人には知られたくないと思っている。知られたところでどうってことはないんだろうけれど、周りが僕を見る目はきっと……いや、ほぼ百パーセント、以前とは変わってしまうはずだ。「あの子、記憶喪失なんだって」なんて陰で囁かれるのはあまり気分のいいことじゃない。  今のままで、十分幸せだった。  変な夢は見るし、そのたびに頭が痛くなるけれど、それさえ我慢すれば僕の日常は至って平穏でそれなりに楽しい。生まれてから十一年分の記憶はなくても、今の僕は周りと同じようにひとりの高校生としての日々を充実させられているのだ。これ以上、何を望もうというのか。  ――これでいい。  今のままでいいんだ。  このままで……いい、はずなのに。  ちら、とつい淀川さんのことを見てしまう。  早速隣の席の女子と仲よくなったらしく、彼女の顔には笑みが浮かんでいた。 「……っ」  頭に鈍い痛みが走る。  夢の中で、あの女の子が笑っていたことは一度もない。無表情というわけではないが、すごく真剣な目をして僕のことを見つめてくるのだ。 「――!」  はっとした。  僕の視線に気づいたのか、彼女とばっちり目が合ってしまった。  咄嗟に僕は目を逸らす。ゾクリと全身に震えが走った。  あの目……真っ白な景色に現れる、あの女の子と同じ瞳。  やっぱり彼女が、僕の夢に出てくる女の子なのだろうか。  治まりかけていた頭痛が本格的にぶり返してきた。まずい。今日から一年間、彼女と同じ空間で学校生活を送っていかなければならないというのに。この調子じゃ、いつまたさっきのような激しい痛みに襲われて倒れるか知れたもんじゃない。 「大丈夫か? 理紀」  机の上に右肘をついて重たい頭を支えていると、後ろから聡平が声をかけてきた。あいた左手を軽く挙げて〝大丈夫〟と合図するも、内心不安で仕方がなかった。  聡平の言うとおり、僕は僕の忘れてしまった過去のどこかで、彼女と会ったことがあるのだろうか。  僕の思い出せない記憶の中にいる人だから、夢に出てくるということなのか。  もしかして彼女は、僕の過去を知っているのだろうか。  彼女なら、僕が本当は何者であるかということを――。 「…………っ」  考えれば考えるほど、頭痛がひどくなっていった。  目を開けているのもつらくなってきて、結局机の上に突っ伏してしまう。  最高だと思っていた新学期のはじまりは、ものの数時間で最悪の幕開けへと変わってしまった。  今朝方つかんだ小さなラッキーはほんの一瞬で消し炭になり、僕の心には、大きな不安だけが残った。
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