第六章 ただ君を守りたかった

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「理紀から離れろ! 話は全部聞かせてもらった!」  聡平は先生に向かって叫んだ。弘海さんの手にはスマホが握られ、動画を撮っているのか、先生の立ち姿を映すように顔の前で構えられていた。 「……参ったな、さすがは後藤だ」  一歩、先生は聡平たちに近づいた。 「ここへ入った時、中から扉の鍵を閉めておくべきだった」 「あぁ、ラッキーだったよ。おかげであんたの話を全部録音することができたからな。……まぁ、仮に鍵がかけられてたとしても、あんたがこの部屋から出てくる瞬間を押さえるつもりだったから結果は変わんねぇけどよ」 「ふん、なるほど。おまえたちに後をつけられていた時点で俺の負けは決まっていたというわけか」  カタン、と先生は机の上にナイフを置いた。そして「淀川」と(くだん)の彼女の名を呼んだ。 「悪かったな……おまえなんだろ? 五年前、俺がこのナイフで切りつけた女の子は」  彼女は返事をする代わりに、瞳を揺らし、ごくりと唾をのみ込んだ。フッ、と先生はかすかに笑った。 「自首する気にはなれなかったけど、バレてしまったのなら誤魔化すつもりはない。認めよう……俺は五年前の春、そして六年前の秋と、当時小学生だったふたりの女の子をナイフで切りつけた通り魔だ」  聡平も、弘海さんも、そして被害者である彼女もまた、先生の告白を聞きながらただただ呆然と立ち尽くしていた。  彼らは僕がいなくなったことで先生の正体に気づき、はじめから彼が五年前の通り魔だとわかった上でこうして追い詰めに来たのだろう。それでもやはり、彼は紛れもなく僕らの先生だ。教師として僕らの前に立ち、僕らが明るい未来を掴みに行く手助けをしてくれていた人なのだ。そんな彼を誰もが慕っていたし、信頼していた。簡単に受け止めることがあまりにも難しい事実を突きつけられ、この場にいる僕ら全員が戸惑いを隠しきれずにいた。 「…………オレは」  沈黙を破り、聡平が声を上げた。 「あんたなら、やり直せると思う」  責め立てるでもなく、罵倒するわけでもなかった聡平の一言に、僕らは一斉に息をのんだ。 「あんたは自分のことをよくわかってる。自分がどんどん壊れていってることにも気づけてたみてぇだし、過ちを正そうとする気持ちだってちゃんと持ってる。高校の教師には二度と戻れないかもしれないけど、きちんと心を治して、罪を償ったら、その時はもう一度、オレらのような子どもの相手をする仕事に就いてほしい」  僕には今、先生の背中しか見えていないけれど、聡平の真剣な説得に、先生の漏らす吐息が揺れ始めたのがわかる。 「ほら、なんかいろいろあるだろ? フリースクールの先生とか、児童養護施設の先生とかさ。とにかく、あんたには子どもの相手をする仕事が向いてると思うんだよ。教えるのうまかったし、話も面白いしさ。結構好きだったんだぜ? あんたの数学の授業」 「私も!」  スマホを構えたまま、弘海さんが左手を挙げた。 「私も好きだよ、先生の授業! 数学は苦手だけど、先生の授業は他の先生の時より楽しいって思えたもん!」 「ばーか、おまえの場合数学〝は〟苦手なんじゃなくて数学〝も〟苦手なんだろ」 「うるさいわっ! 余計なお世話!」  聡平が茶々を入れると、弘海さんがすかさずツッコミを入れる。相変わらずいいコンビネーションだ。 「な? 理紀。おまえもそう思うだろ?」  ひょこっと顔を覗かせながら、聡平は先生の足もとで床に転がる僕に問いかけてくる。言葉では答えられないので、うんうんとなるべく大きく首を縦に振って見せた。  確かに、僕も米村先生のことは好きだ。彼の行いに過去を奪われたことは紛れもない事実だけれど、彼を好いているという気持ちは今でも変わらず持っている。  心は壊れてしまったけれど、決して治らない病気とは違うのだ。根本的にはいい人なんだと彼の告白を聞いた今ならなおよくわかるし、できることなら、彼にはこれからも未来ある子どもたちの力になってあげてほしいと思う。 「淀川」  今度は彼女に話を振る聡平。彼女もまた、晴れやかな表情とはどうにも言いがたかったけれど、それでも首を縦に振った。 「許す、許さないは別として、あたしも先生には〝先生〟っていう仕事が向いていると思う」  毅然とした態度で彼女は答えた。彼女の持つ芯の強さを、凜とした瞳の輝きがありありと映している。  僕らの反応に、先生は肩を震わせた。顔をうつむかせ、小さくすすり泣く声が聞こえてくる。 「…………ありがとう」  吐息混じりに、先生は言った。 「ごめん……ごめんな。小坂、淀川……本当にすまなかった」  腰を折り、深々と頭を下げた先生は、やがて声を上げて泣きながらその場にくずおれてしまった。聡平が駆け寄り、弘海さんは動画の撮影を終えた。 「弘海、悪いけど保健室の槙野先生を連れてきてくれるか?」 「わかった」 「あと、事情を説明して警察と救急車を呼んでもらってくれ」 「了解、任せて」  聡平の指示を受け、弘海さんは即座に(きびす)を返して保健室へと駆けていった。 「淀川、おまえは理紀を」 「うん」  彼女が返事をすると同時に、聡平は泣き崩れる先生を抱えて空いている椅子へと座らせた。 「理紀」  彼らと入れ替わるように、彼女が僕のもとへと駆け寄ってくる。 「大丈夫?」  彼女はいの一番に猿轡を外してくれた。長時間中途半端に口を開けたままにしていたので顎が痛む。声を出そうとしたらむせてしまって、彼女が背中をさすってくれた。  手足のロープを外すより先に、彼女は僕の体を抱き起こした。ようやく呼吸が落ち着き、僕は改めて、彼女とまっすぐに視線を重ねた。 「すず」  何よりもまず、彼女の名を、と決めていた。 「ごめん、すず」  それから、五年も遅れてしまった謝罪の言葉を、と。  大きく見開かれた彼女の瞳に、うっすらと涙がにじんだ。 「……思い出したの? 全部」 「うん、全部思い出したよ。ごめん、僕……こんなにも大事なことを、忘れてしまっていたなんて」  僕が忘れてしまっていたのは、何よりも忘れてはならないことだった。  僕の記憶から抜け落ちたのは、この世界で家族以外にもっとも大切だと思っていた人のこと。 「いいの」  すずは小さく首を振った。 「忘れたままでいてくれてよかった。そのほうが君は絶対に幸せだった」 「すず……」 「あの事件に巻き込まれたことを、自分が人殺しになりかけたことを忘れられたなんて、これ以上ない幸せだと思った。それに、もしまたあたしがどこかで怖い目に遭った時、理紀と一緒にいれば次も理紀は絶対に無茶をする。あの時は寸止めで終わったけど、この次はそうはいかないかもしれない……そう思ったら、怖かった。理紀には平穏な日々を過ごしてもらいたかったし、誰よりも幸せになってほしいと思ったから」  僕の膝に手を置いて、すずは僕の目を見て言った。 「あたしはただ、君のことを守りたかったの」  はっ、と僕は息をのんだ。彼女の目は、真剣だった。 「ただただ、大切なものを守りたかっただけ。あの日の記憶を取り戻したら、君はもう一度恐怖を味わうことになる。そんなことさせたくなかった。忘れたままでいてほしかった。あたしのことだって……思い出してもらえなくても……」  彼女の瞳から、大粒の涙があふれ出した。けれど、今の僕にはそれを拭ってやることができない。  悔しい。  とても悔しいと思った。  彼女を悲しませていることが。彼女を抱きしめてあげられないことが。 「君さえ幸せに生きてくれればそれでよかった。だからお父さんや理紀のご両親にも協力してもらって、理紀が記憶を取り戻さずに生きていける方法を考えた。まさかこんな風に再会するなんて思ってもみなかったし、君の記憶が戻っていないことを悟って、いっそこのまますべてを忘れたままでいてほしいとさえ願った。……でも」  うつむき、彼女は声のトーンを少し落とした。 「あたし、間違ってた。記憶を無くしたことで、君がすごく苦しい思いをしていたんだってことに全然気づけなかった。あの日の恐怖を忘れ去ったことを幸せだって思い込んで、君の意思を無視して勝手に記憶を封じ続けて……ごめんね、理紀。ほんと、ごめん」  とめどなくあふれ出す彼女の涙を前に、僕は首を大きく振った。 「違うよ、君は悪くない。僕が記憶喪失になったばっかりに……いや、僕があの時先生に向かってナイフを振り上げたばっかりに、君にこれまでずっとつらい思いをさせてきてしまったんだ。事件を大きくした僕だけがすべてを忘れて、本当の被害者である君がひとりであの日の苦しみを抱え続けているなんて……僕が記憶を無くさずに、君のそばにいてあげられていたら、君は……」  僕もついに(こら)えられなくなって、声を震わせ、涙をこぼした。 「バカだ、僕は……僕じゃなくて、君の記憶が消えればよかったんだ」  そうすれば彼女は、あの日の恐怖に苦しみ続けることになんてならなかったのに。  僕が代わりに、彼女の苦しみを背負ってあげられていたのに。  僕だって、君のことを守りたいと思っていたのに。 「――バカだよ、おまえらふたりとも」  僕とすずのすぐ近くで、どこかから調達してきたらしい紐で先生の両手を縛っていた聡平が声を上げた。 「過ぎちまったことを今さら後悔したって仕方がねぇ。今はただ、すれ違ってた五年分の溝をどうやって埋めていくか……それだけを考えればいいんだよ」  せっかく再会できたんだからな、と聡平は笑った。僕とすずは顔を見合わせ、もっともな彼の意見に互いに頬を綻ばせた。  互いにひとりで悩んでいた僕らは、運命のいたずらによってこうして再び巡り会うことができた。  僕らはもう、ひとりじゃない。喜びも、悲しみも、ふたりでいれば分かち合える。  過去を受け入れ、今を生きる。  それが、これからの僕らが進むべき道だ。 「ねぇ、すず」 「なに」 「悪いんだけど、紐、ほどいてくれない?」 「あ」  ごめん! とすずは慌てて僕の背中側に回って手を縛っていた紐から外し始めた。 「理紀! 取れないよ、これ!」 「そこにナイフがあるじゃない。あれで切れば」 「イヤ! あれには触りたくない!」  それはそうか。何せ彼女はあのナイフで腕を切られているのだ。配慮を欠いた提案だった。 「だーもううっせぇなぁ! どけ、淀川!」  見かねた聡平がすずに代わり、先生の手を縛るための紐を切るのに使ったはさみで僕の手足の紐を切りほどいてくれた。 「ありがとう、聡平」  ようやく全身が自由になって、座ったまま少し手足を動かしてみた。怪我はないようなので安心して立ち上がろうとしたのだが……。 「……ぁ、れ…………?」  くら、と唐突に眩暈が襲ってきた。二本足で立つことは叶わず、咄嗟に床に手をついて四つん這いの姿勢になる。 「理紀?」  目の前にいるはずなのに、僕の名を呼んだすずの声がひどく遠くに感じる。ふわぁっと体から力が抜け、徐々に視界が白くぼやけていく。 「おい! 理紀!」  聡平の声が聞こえた時には、僕は再び教室の床に倒れていた。  階段で殴られた時の頭の傷が、ズキズキと鈍い痛みを薄れゆく僕の意識に訴えかけてきていた。
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