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三時間目まで続いたホームルームが終了し、今日の学校はここまでだ
午後から野球部の練習がある聡平と別れ、僕は米村先生とともに職員室へと向かった。
南館の二階にはほぼ廊下がない。東西それぞれの袋小路地帯に調理室と被服室がある以外、残る全フロアがすべて職員室だからだ。従って、西階段側から東階段側へと抜けるためには職員室の中を横断しなければならず、職員に用のない場合の通り抜けは原則禁止とされている。
職員室に入るなり、米村先生は「ちょっと待っててくれ」と僕を扉の前に立たせて自らのデスクに立ち寄った。机の引き出しから一冊の分厚いファイルを取り出すと、再び僕を従えて東側の奥に設置されている生徒指導室へと向かい、中へと僕を招き入れた。
職員室内の一角でここだけが壁と扉で仕切られており、窓も磨りガラスのため外から覗かれることもない。そんな空間に仕立ててある割に、この小さな部屋の扉は常に開かれたままになっている。教員が生徒に対していかがわしい行為をしたり、犯罪まがいのことが行われたりしないようにとの配慮らしい。
「やっぱり顔色がよくないなぁ」
机を挟んで僕の正面に座った米村先生は、険しい表情で僕を覗き込んでくる。
「話していて大丈夫か? 日を改めてもいいぞ?」
「いえ、大丈夫です」
即答した僕に「そうか」と言うと、先生は持ってきたファイルを中身が僕に見えないように斜めに立ててめくり始めた。
「頭が痛いと言っていたな?」
僕の顔とファイルを交互に見ながら先生は早速尋ねてくる。
「はい」
「ただ事じゃない痛がり方だったけど、よくあるのか? ああいうことは」
「……いえ、今日がはじめてです」
「本当に? それにしちゃ後藤の対応がやけに冷静だった気がするんだが……」
「頭痛持ちなんです、昔から。聡平はそれを知っているので」
なるほど、と先生は再びファイルのページを繰り始める。最初に見ていたのは僕についての情報で、今はおそらく聡平について確認しているのだろう。
「そうか、おまえたちふたりは同じ中学の出身なんだな」
「はい。小学校からずっと一緒です」
「へぇ。……こう言っちゃ失礼だけど、意外な組み合わせだよな、小坂と後藤が気の置けない仲なんて」
「よく言われます」
「だろうな。片や野球部のエースピッチャー、片や医学部志望の帰宅部。クラス内でも後藤はよく目立つ存在で、逆に小坂は比較的地味であまり目立つタイプじゃない」
「……はっきり言いますね」
「思うところがあるということは、それが事実だと暗に認めてるってことだぞ?」
ニヤリと笑う米村先生。なるほど、どうやらこの人は相手の心を掴むのがうまいらしい。週に二回数学の授業を担当してもらっていただけでこれまでほとんど言葉を交わしたことのない僕のことを、実はよく見ていてくれたんだなと知って嬉しくなる。
「聡平のほうから僕に興味を持って近づいてきたんですよ。小学生の頃の話ですけど」
事実をありのまま告げると、先生はやや驚いた表情を見せた。
「そりゃまた意外な」
「初対面なのに『おまえは嘘つきだ』っていちゃもんをつけられました」
「なんだそれ。最悪の出会いじゃないか」
先生は困ったように笑った。これには僕も肩をすくめるしかない。思い返せば、確かにあの時の聡平は威圧感たっぷりでちょっと怖かった。それが今じゃ親友なんて、僕自身、信じられないところではある。
ふむ、と先生は改めて僕を見た。
「後藤が小坂に興味を持ったのは……今朝の頭痛の原因と無関係じゃないってことなのかな?」
先生の視線が鋭くなり、まっすぐ僕の瞳を射貫く。どきりとした。向けられる眼光の強さに、下手な誤魔化しは通用しないと告げられているようで。
「…………夢を、見るんです」
覚悟を決めて話し始めると、先生の眉間にしわが寄った。
「夢?」
「はい。小学生の頃から、何度も同じ夢を見ていて」
「どんな夢なんだ?」
「……どこまでも真っ白な世界の中に、小学生の女の子が立っていて」
「小学生の? 小坂の知っている子なのか?」
「聡平はそうじゃないかって言ってます。夢っていうのは脳が記憶を整理する時に見るものだからって」
「その言い方だと、小坂としては知らない女の子なんだな?」
はい、と僕はうなずいた。その女の子が転校生の淀川さんそっくりであることはひとまず伏せておく。
「それで? その夢が頭痛の原因だっていうのか?」
「直接の原因かどうかはわかりません。でも、あの夢を見た日は必ず頭が痛くなります」
「うーん……その話だけじゃどうにも判断が難しいな。病気なのか、精神的なものなのか……。あるいは他に、何か頭痛を引き起こすような原因は思い当たらないか? その夢を見始めた頃、何か大きな変化に遭遇したとか」
鋭い。さすがは県内でも有数の進学校で教鞭を執るだけある。
答えに迷って黙り込んでしまっていると、「小坂」と先生は今一度僕の名前を口にした。
「責めているわけじゃないんだぞ? 俺はただ、さっきの小坂の痛がり方が尋常じゃなかったから、もし病気なんだとしたらきちんと把握しておきたいと思っただけだ。今後の学校生活の中で、いつまた今朝みたいなことが起こってもおかしくない。今日は事情を知っている後藤がそばにいたからよかったけど、そうじゃない瞬間に倒れられたら俺たちはどう対応したらいい?」
もっともな意見だった。
もし聡平のいないところであの頭痛に襲われ、見知らぬ誰かに介抱されるようなことになったら、まず間違いなく救急車を呼ぶだの何だのと大事になるだろう。僕としても、そのような事態はなるべく避けたいところではある。特に両親には、できる限り無駄な心配をかけたくない。
無意識のうちにうつむいてしまった僕に向かって、先生は話を再開する。
「な? 困るだろ。緊急時の適切な対処法を把握しておくことも俺たち教員の仕事のうちなんだ。病院に行って検査してもらえと言うのは簡単だが、そんなことをしなくても、もし小坂自身が原因を理解しているのなら、教えてもらえるとありがたいんだけどな」
真剣に語る先生の姿に、内側からにじみ出る真面目さを感じずにはいられなかった。僕のような地味で目立たない生徒に対しても真摯に向き合ってくれるからこそ、彼は人気教師の座をほしいままにしているのだろう。
もはや、隠しておく必要はないと思う。この人にはむしろ話しておいたほうがいいような気さえした。米村先生ならきっと、僕の力になろうとしてくれるに違いない。
「……誰にも言わないって、約束してくれますか?」
念のため前置きを据え、僕は米村先生の目をまっすぐに見る。先生の表情に緊張が走るのがわかった。
「それは……何か人に知られたくない病気を抱えていると解釈していいのか」
「病気じゃありません」
ひと呼吸置いて、僕はゆっくりと話し始めた。
「僕、記憶がないんです」
意表を突いたのだろう、先生の表情が一変した。
「き、記憶……?」
「はい。僕には小学校六年生の春よりも前の記憶が一切ありません。何か頭を強く打つような出来事があったらしくて、それが原因で記憶喪失になったみたいなんです」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
あからさまに動揺を見せる先生は、サイドを刈り上げてオシャレに整えられた髪をくしゃりと触った。
「本当なのか? その……昔の記憶がないっていうのは」
「本当です。名古屋じゃないどこか別の場所で記憶を無くしたらしいんですけど、僕が覚えているのは名古屋のおばあちゃんちに引っ越してきて、聡平と出会った小学校に通い始めた時から今日までの五年間の出来事だけです。どうして記憶を失うことになったのかとか、名古屋に来る前はどこに住んでいたのかとか……僕、本当に何も知らないんです。誰も教えてくれなくて」
「あぁ……そう。そう、なのか」
六年生の春、と米村先生は僕の言葉を繰り返した。
よほど衝撃的だったのか、先生は髪を触っていた右手で今度は口もとを軽く覆い、視線をふらりと泳がせた。まだ二十六歳と若いこともあり、僕のようなある種の障がいを抱えた生徒を扱うのははじめてなのだろう。そのまま少しだけ考えるような仕草を見せ、先生は改めて僕の姿を視界にとらえる。
「じゃあ、今朝の頭痛は記憶喪失が原因だということか」
「はっきりとそう言えるわけじゃないんですけど、無関係ではないと思っています」
「そうか……まぁ、病気じゃないというならそう考えるのが自然ではあるよな。頭痛は昔からだと言っていたが、少しでも過去の記憶を取り戻したとか、そういったことはなかったのか?」
「いいえ、何も。さっき聡平にも同じことを聞かれました。あれほどの痛みを覚えたのは本当に今日がはじめてだったので」
そうか、と先生は相槌を打って、再び思案するような表情を見せる。
「……小坂」
「はい」
「さっき頭痛を訴えた時、ちょうど俺が淀川さんのことをみんなに紹介した時だったよな」
思わず両眉を上げてしまった。やっぱりこの人は勘がいい。観念して、僕は小さく息をついた。
「夢の話をしましたよね、さっき。何度も同じ夢を見るって」
「あぁ」
「その夢に出てくる女の子が、淀川さんにそっくりなんですよ」
先生は一瞬目を見開いたけれど、やがて「なるほど」と納得したように何度かうなずいた。
「頭痛は夢を見た日に起きるって言ってたもんな。なら、夢に出てくる女の子とそっくりな子が目の前に現れれば、当然頭も痛くなると」
はい、と僕は力なく返事をする。「わかった」と先生はもう一度うなずいた。
「よく見るというその夢と記憶喪失との因果関係はわからないが、少なくとも小坂にとって、淀川さんの存在は必要以上に意識してしまうところだろう。だが、今さら所属クラスを変更することはできない。しばらくはつらいかもしれないが、徐々に慣れていってもらうしか対処法はないと思う」
「そう、ですよね」
「念のため、淀川さんには今の話をするな。彼女は転校してきたばかりだ、自分がクラスメイトの頭痛の原因になってしまっているなんてことを知れば他の生徒たちよりもずっと動揺してしまうだろうから」
「そうですね。僕としても、記憶喪失の件についてはできれば聡平以外の誰にも知られたくないので」
「そうか、わかった。俺からも言わないから心配しなくていいぞ」
誰にもな、と先生は念押ししてくれた。「ありがとうございます」と僕は素直に頭を下げた。
また頭が痛くなったり困ったことがあったりした時はいつでも相談するように、と最後に言われ、米村先生との面談は終了した。改めて一礼してから生徒指導室を出て、「失礼します」と口にしながら入ってきた西階段側の扉をガラリと開けた。
そこで目に飛び込んできた光景に、僕は大きく息をのんだ。
扉から二メートルほど離れたところ。見覚えのあるポニーテールの女子生徒とまっすぐ視線がぶつかった。
淀川鈴子――壁に背を預けた状態で、彼女は僕が職員室から出てくるのを待ち構えていた。
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