第二章 東京エンカウンター

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    ◇◇◇  午後四時。  帰宅すると、まだ母さんはパート先のスーパーから帰ってきていなかった。  家にはおばあちゃんだけがいて、おばあちゃんはリビングでのんびりテレビドラマを見ていた。いつもの風景だ。  自分の部屋に戻るフリをしてリビングを出ると、僕はまっすぐ父さんと母さんの寝室へと向かった。  ふたりの部屋は二階にあり、僕の部屋との間には父さんが書斎にしている小部屋が挟まれている。階段を上がって正面が書斎、右側が母さんたちの寝室だ。  基本的に、僕の部屋以外の扉はどこも開きっぱなしになっている。もちろん、母さんたちの寝室にも出入り自由。自分の部屋に鞄とブレザーを放り込むと、僕は早速母さんたちの寝室へ入って母子手帳を探し始めた。いつも母さんが帰ってくる時間までおよそ三十分。時間との戦いだ。  母さんは読書が趣味で、寝室には立派な本棚が二台置かれている。どちらもびっしり本が詰まっていて、僕も何冊か借りて読んだことがある。当然、母子手帳を入れておくようなスペースはない。  他にはドレッサーが一台と(よう)(だん)()が二(さお)。どれも(ひき)(だし)を片っ端から開けてみたが、どこにも収納されていなかった。  残るはクローゼットだ。開けてみると、ワンピースやら冬用のロングコートやらが所狭しと並べてかけられていた。下のほうにいくつか空き箱のようなものが積まれていたので中身を確認してみたけれど、空振りに終わった。 「くっそー……どこにしまい込んでるんだよ母さん……!」  恨めしげにつぶやいたところで母子手帳が返事をしてくれるはずもなく、僕は諦めて寝室を後にした。まさかとは思ったけれど、一応父さんの書斎も探してみる。当たり前だが、見つかるはずもなかった。  僕は盛大に頭を抱えた。財布や携帯はいつも持ち歩いている鞄にしまいっぱなしにしていることは知っていたので、もしかしたら母子手帳も常に持ち歩いているのか? と思わないでもなかったが、さすがにそれは考えすぎだろう。保険証や病院の診察券じゃあるまいし、ほとんど使い道のない母子手帳なんて荷物になるだけだ。 「…………診察券?」  トボトボと階段を下りながら、僕ははたと気がついた。 「そうか! あそこだ!」  一気に階段を駆け下り、一直線にリビングへと飛び込む。 「おばあちゃん!」  テレビの前のソファーにゆったりと腰かけているおばあちゃんに向かって、僕はいつも以上に声を張り上げた。 「うん?」 「あ、あの! おなか、すかない?」 「ほえ?」 「お・な・か! すかない?」  自分のおなかを指さしながら、僕はもう一度おばあちゃんに問いかける。おばあちゃんはここ最近、すっかり耳が遠くなっていた。 「はー、はいはい」  朗らかな声を上げながら、おばあちゃんはどっこらしょと立ち上がった。 「ちょっと待っとって。おまんじゅう、持ってきたげるで」  丸まった背中でえっちらおっちら歩き出すと、おばあちゃんは少しも僕を疑うことなくリビングを出て行った。おばあちゃんの寝室は一階の奥で、和室の仏壇にはいつもおじいちゃんへのお供えでおまんじゅうが置かれているのだ。 「よし」  ひとりきりになるチャンスを作った僕は、即座に目的地であるところのキッチンへと向かう。そして、一番大きな食器棚の前に立つと、ちょうど腰の高さにある抽斗を一つ開けた。  家の鍵や預金通帳、わずかな現金など、母さんは常日頃持ち歩かない大事なものをすべてこの食器棚の抽斗にしまっていることを思い出したのだ。そこには家族全員分の診察券も収納されていることを知っていたので、もしかしたら僕の母子手帳もと考えたわけだ。 「――ビンゴ」  通帳やら何やらがいくつも上積みされた一番下に、僕の探していた母子手帳はあった。 「ほれ、理紀くん」  はっ、と僕はおばあちゃんの声に肩をびくつかせながら振り返った。手にした母子手帳は咄嗟に背中の後ろへと隠し、決して広くないキッチンの中をにじにじと変な歩き方で抜け出して、ゆっくりとした足取りでこちらへ近づいてくるおばあちゃんからおまんじゅうを受け取った。 「あ、ありがと」 「お茶、入れよかね」 「ううん、僕の分はいいや。自分の部屋で勉強しながら食べるから」  そうかい、と言って、おばあちゃんは再びテレビの前へと戻っていった。流れている水戸黄門がちょうどクライマックスを迎えていた。 「ただいまー」  その時、玄関のほうから母さんの声が聞こえてきた。まずい。このままじゃ母子手帳を手にしたまま母さんと鉢合わせしてしまう!  幸い、おばあちゃんは水戸黄門に夢中で僕のほうを見ていなかった。僕は咄嗟にシャツのボタンを開け、胸の中へと母子手帳を滑り込ませた。ズボンのベルトの位置でストンと落下が止まったそれをシャツの上から右手で押さえ、おなかの痛みを我慢しているような格好でリビングを出る。  母さんは、すぐ目の前に迫っていた。 「お、おかえり」 「ただいま。……何、おなか痛いの?」 「いや、違うよ。大丈夫」 「そのおまんじゅうは?」  目敏(めざと)くも左手に握ったおまんじゅうを見つけ、母さんは間髪入れず尋ねてくる。 「おばあちゃんがくれた」 「そう」  私の分もあるかな、なんて言いながら、母さんはリビングへと入っていった。はぁ、とやや大きく息を吐き出し、僕はそそくさと自分の部屋へと戻った。 「よいしょっと」  ベッドの端に腰かけ、シャツの中に隠していた母子手帳を取り出す。  表紙には僕の名前と、父さん、母さんの名前が記されていた。どこにも修正された形跡はなく、どうやら僕は生まれた時から〝小坂理紀〟であった可能性が濃厚だ。  そして、名前の他にもう一箇所、僕の目を引く文字列があった。 〝()(さし)()市〟  僕の名前が書かれているすぐ下に、表紙の薄桃色より濃く、赤に近いピンクでそう印字されていた。 「武蔵野って、確か……」  ごくりと生唾をのみ込みながら、ぺらりと表紙をめくってみる。緊張しているのか、指先の感覚があまりない。  一ページ目は『出生の記録』と題されていて、生まれたての赤ん坊の写真の下に、役所による出生証明が記されていた。その名前もまた〝小坂理紀〟で、修正された様子はない。写真の赤ちゃんはどう見ても僕で、やはり僕は養子ではなく、僕の知っている父さんと母さんは実の両親ということで間違いないとこれではっきりした。ひとまず安堵する。  そして。 「やっぱり……!」  ページ中央に貼られた写真のすぐ上は父母の名前と現住所を記載する欄になっており、僕の視線は、そこに書かれた一点に集中した。 〝東京都武蔵野市△△……〟  名古屋に越してくる前、父さんと母さんが住んでいたのは、淀川さんと同じ東京だった。
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