第一章 記憶のない僕

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第一章 記憶のない僕

 また僕は、同じ景色の中に(たたず)んでいた。  見渡す限りの白。降り積もる雪のように太陽光を反射してきらきらと輝いているわけではなく、本当にただ、真っ白な絵の具を塗りたくっただけのような。  こうしてこの場所へとやってくるのはもう何度目だろう。遠近感すら失って、あてもなくきょろきょろと辺りを見回してみるのもいつもどおり。そうして僕は、今日も同じ夢を見ていることに気がつくのだ。  音も、においもないこの空間でしばらくじっとしていると、いつものように、小さな女の子が姿を現した。  肩にかかるくらいの黒い髪。ジーンズ生地のミニスカートにクリーム色のハイソックス。靴はピンクのラインが入ったグレーのスニーカー。桜色のトレーナーには英語のロゴが入っている。そしてその背中には、よく使い込んだことが見て取れる真っ赤なランドセル。  何度も繰り返し見てきた光景。彼女は今日も、五メートルほど離れたところに立っていた。彼女が目の前に現れることで、僕はようやく距離というものを感じることができるようになる。  ――あの子は一体、誰なのだろう。  そんな単純な好奇心から、僕は一歩、彼女に近づく。けれど彼女は、ただその場に立っているだけ。笑うでもなく、口を開くでもなく、ましてや僕に近づいてくるでもなく。まっすぐ僕のことを見つめたまま、その場に佇んでいるだけなのだ。  僕が足を踏み出すたびに、少しずつ彼女との距離が縮まっていく。二メートルほどの距離になって、幼げなその顔がはっきりと見え始めたその時。 『――――――』  彼女の口が、かすかに動いた。  僕に向かって、彼女は何かを伝えようとしている。  何と言った? 相変わらず、この真っ白な空間に音はない。  もう少し。もう少し近づくことができたら、あるいは声が聞こえるかもしれない。  僕はまた一歩、彼女に近づく。手を伸ばせば、彼女の肩に触れられそうだ。 『――――――』  もう一度、彼女の口が動いた。けれど僕には、彼女の言葉が届かない。  ねぇ、何て言ったの? 君は僕に、何を伝えようとしているの?  手を伸ばす。彼女の肩に触れようと。  なのに僕は、一向に彼女に触れることができない。  どれだけ手を伸ばしても、彼女との距離が縮まらない。  彼女の口が動く。僕に何かを伝えようとしている。  僕は手を伸ばす。彼女の言葉を捕まえたくて。  お願い。待って。逃げないで。  君は僕に、一体何を伝えようとしているの――……? 「――――理紀(りき)!」  ベリッと勢いよくガムテープを剥がすかのごとく、僕はバチッと目を覚ました。 「いい加減にしなさい! いつまで寝ているつもりなの!」  ベッドに横たわったままの僕を、母さんが鬼の形相で見下ろしていた。 「まったく……やめてよね、新学期早々遅刻だなんて」  何やらぶつぶつと文句を垂らしながら、母さんは階下のリビングへと消えていった。  はぁ、と小さく息をつく。あの夢を見た日の寝覚めはいつだって最悪だ。  むくりと重たい体を起こす。ぐるりと視線を一周させて、紛れもなくここが僕の部屋であることを確認する。  壁にかかった時計は七時十分をさしていた。電車の都合で、遅くとも午前七時四十分には家を出ないと遅刻が確定してしまう。母さんはガミガミ言ってきたけれど、また三十分も余裕があるじゃないか。もう一度、僕はため息を吐き出した。  四月七日。今日から僕は高校二年生になる。新しいクラスには見知った顔があるだろうかと、昨日から楽しみで仕方がなかった。  なのに、あの夢だ。  真っ白な世界の中で、見知らぬ少女が佇んでいる。少女は僕に、何かを伝えようとしている。  それが何なのかは最後までわからず、疑問と、不安と、鈍い頭痛だけが残る。そこまで含めて、僕がこの五年間で何度も何度も繰り返し経験してきたことだった。  右の人差し指と中指を立て、こめかみをぐりぐりと揉みほぐす。頭痛が和らぐ気配はない。気休めだとわかっていても、あの夢を見てしまうとどうにもやらずにはいられなかった。  パジャマから制服に着替え、歯を磨き、顔を洗う。すでに用意されている朝食を食べながらテレビのニュースを見ていたら、もう出発の時刻になる。  電車に揺られること約三十分。僕は二年目の高校生活を始めるべく、名古屋市立(てん)()高校の門をくぐった。  校門の桜は満開をとうに過ぎていたけれど、散り始めとあって、立ち並ぶ木々はまだまだ綺麗に色づいていた。よく晴れており、気温もほどよく上がっていて、ぽかぽかと春らしい陽気が全身を包み込んでくれる。  まっすぐ向かった先は(なか)館と(みなみ)館の間を走るメインストリート。花壇やベンチが整備されている中庭の片隅に、全校生徒用の掲示板が学年ごとに並んで設置されている。新しいクラス表はそこへ貼り出されていた。 「よっ!」  午前八時二十分。人だかりの後方でスペースができるのを待っていると、不意に肩を叩かれた。 「おはよ、(そう)(へい)」  肩に乗せられた手の(ぬし)は、同じ中学からこの天和高校へと入学した同級生・()(とう)聡平だった。野球部に所属していて、朝練が終わったその足で立ち寄ったらしい。 「よろしくな、理紀! 今年は同じクラスだ」 「うそ! やった、聡平が一緒ならこの一年は安泰だ」  新学期早々いい知らせが舞い込んできて、僕の気分は立ち所に上昇した。あの夢を見たことなどすっかり忘れ、聡平とともに改めてクラス表を確認する。  二年六組   十番  ()(さか)理紀   十一番 後藤聡平  苗字のおかげで、僕らが同じクラスになる時はたいてい出席番号が前後になる。今回もご多分に漏れず、おそらく席も前後だろう。  部活に入っていない僕は顔がまったく広くないので、新たなクラスメイトとうまく馴染めるだろうかと心配していたけれど、聡平がいるなら何も心配することはない。愛想がよく、坊主頭ながら男の僕から見てもかっこいいと思える顔をしていて、誰からも好かれるタイプの聡平は、小学校六年生の頃からの僕の大切な友人だ。  そして彼は、この高校で唯一、僕の秘密を知っている人物でもある。 「そういや、うちの学年に転校生が来るってよ」  靴をスリッパへと履き替え、二年生の教室が集まる中館二階へと向かうべく西側の階段を上りながら、聡平は唐突にそんなことを言い出した。 「転校生?」 「おう。野球部のヤツが今朝職員室で見かけたらしい。見たことないヤツで、ブレザーの襟に黄色の校章をつけてたってさ」  へぇ、と僕はやや眉を上げた。  この学校では学年ごとに色の違う校章のピンバッチを制服の襟につけることが校則で定められていて、僕らの学年は黄色が指定カラーだった。クラスや名前まではわからずとも、見覚えのない生徒が朝早くから職員室で先生と一緒にいたのなら、まず間違いなく転校生だろう。 「珍しいね、二年生から編入なんて」 「まぁな。けどその子、めちゃくちゃ美人だって話だぜ?」 「女の子なの?」 「あぁ。あまりの可愛さにアイドルとかモデルとかなんじゃねぇかと思ったってさ! うちのクラスだったらラッキーじゃね?」  まぁ、と僕は曖昧に返事をする。すると聡平は「あー、悪い」と頭をかいた。 「おまえ、女子はダメだったな」  スッと視線を逸らされ、僕は肩をすくめるしかなかった。  聡平の言うとおり、僕は女の子に対して苦手意識を持っている。母や祖母、学校の先生のような大人の女性を相手にするときは問題ないのだが、同級生に話しかけられると途端に対応できなくなってしまうのだ。  理由も、昔のこともよくわからないけれど、少なくとも僕は女の子と目を合わせるのが怖くて怖くて仕方がない。向こうから話しかけてきてどうにも逃げられそうにない時は、できるだけ目を合わせないようにすることでたいてい精一杯になっている。女の子の側にはまったく非がないので、この上なく失礼な話だ。 「同じクラスだといいね、その子も」  思ってもいないことを口にして、僕は聡平よりも先に新たな一年を過ごす二年六組の教室へと入った。  予想どおり、僕と聡平の席は前後だった。窓側から二列目。僕が前から四番目で、聡平は五番目だ。荷物を置いたらすぐに体育館へと移動して、始業式と、教職員の着任式に出る。  式典の中で、一年間お世話になる担任の先生が発表された。一年生の時に数学の授業を担当してもらった先生で、二十六歳と若く、長身で知的な見た目も相まって、女子生徒からの人気が高い男性教師だった。 「ラッキーが続くなぁ、今年は」  式典が終わり、教室に戻る道すがら、聡平はすこぶる上機嫌な足取りでニヤついていた。 「おまえと同じクラスで、担任は(よね)(むら)ときた。ははっ、なんか今日一日で一年分の運を使い果たした気がする」  聡平の漂わせるウキウキ感がうつり、僕も自然と笑みをこぼす。  僕ら二年六組の担任となった数学の米村先生は、僕らと歳が近いこともあって、女子だけでなく男子生徒からも厚い信頼を寄せられる先生だった。女子バスケットボール部の顧問で、彼が顧問になった三年前から部員数がぐっと増えたというのがもっぱらの噂だ。 「これで例の転校生さんも同じクラスだったら、聡平にとってはまさに天国だね」  僕が笑うと、聡平は「間違いねぇな」と鼻の下を伸ばした。    その妄想は、すぐに現実のものとなった。  二時間目のホームルームで、担任の米村先生が例の転校生を連れて教室に入ってきたのだ。  そして僕は、彼女の横顔を視界にとらえた瞬間、大きく目を見開いた。 「えー、改めまして。一年間、二年六組の担任をすることになりました、米村です。よろしくな。で、こちら」  米村先生は傍らに佇んでいた、長い黒髪をポニーテールにしている少女の背中にそっと手を回す。 「(よど)(がわ)(すず)()さん。今日からこの学校で一緒に学ぶことになった。東京から引っ越してきたので名古屋のことはほとんど知らないそうだから、みんなでいろいろと教えてあげてな」  先生に促され、彼女は教壇の中心に立った。 「淀川鈴子です。父の仕事の都合で名古屋に来ました。仲よくしてくれると嬉しいです」  よろしくお願いします、と彼女が頭を下げると、教室中があたたかい歓迎の拍手に包まれた。男子だけでなく女子の間からも「可愛いね」との声が上がり、色めき立つ室内に彼女はうっすらと頬を赤く染めてはにかんでいる。  そんな中、ただひとり。  僕だけが、彼女を見つめたまま呆然と座り固まっていた。  ――そんな。  まさか、と思った。  ここは日本列島の中心部・愛知県名古屋市。はるか東京の地からやってきたという、淀川鈴子と名乗る転校生。  彼女の姿を目にした瞬間、雷が落ちたかのような衝撃が全身に走った。  僕は今朝、夢の中で会ったのだ。  ランドセルを背負い、今よりずっとあどけない顔をした彼女に。 「うっ」  突然、猛烈な頭痛に襲われた。息がつまる。頭が割れるように痛い。 「理紀?」  ガンガン鳴り響く頭を押さえて机に突っ伏すと同時に、一つ後ろの席から声が聞こえてきた。聡平だ。 「おい、どうした?」  背中に大きな手が触れた。あまりの痛みに顔が上げられないけれど、聡平が席を立ち、僕のすぐ隣に寄り添ってくれているのがわかる。 「大丈夫か」 「…………そ、へ……」  助けて、と言うつもりが言葉にはならず、すがるように聡平のほうへと体を引きずる。伸ばした手を聡平が握ってくれたところで、僕は椅子の上から床へと転げ落ちた。 「理紀!!」  倒れ込んだ僕の体をしっかりと抱き寄せながら、聡平が驚きに声を張り上げた。 「おい! しっかりしろ!」 「あ、たま……が……っ」 「頭? 頭が痛いのか?」  歯を食いしばって痛みに耐えている僕と、僕に容体を尋ねてくる聡平のもとに、米村先生の「大丈夫か?」という心配そうな声が加わる。 「保健室に連れて行きます。オレ、こいつのことわかってるから」  先生に向かってそう告げた聡平は、「立てるか?」と僕の体を支えてゆっくり立ち上がらせてくれた。ほとんど聡平に体重を預ける形で、僕は保健室に向かってよろよろと歩き始めた。  薄れゆく意識の中で、あの夢の少女の姿がぐにゃりと歪んだ。猛烈な頭の痛みは加速するばかりで、目をしっかりと開けることも、まともに息をすることもできない。  教壇に立つ転校生の彼女は今、どんな顔をして僕の背中を見送っているのだろう。  もつれそうになる足を必死に引きずって歩く僕には、彼女の姿をついに確認することができなかった。
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