第四章 そのナイフが切り裂いたもの

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第四章 そのナイフが切り裂いたもの

   ◇◇◇ 「バカだなぁ、理紀は」  ふたりと別れて一旦教室に戻り、荷物を取って陸上部が練習をしているグラウンドに向かいながら、あたしはつい、そんなことをこぼしてしまう。 「あの日の記憶を取り戻したところで、何にもいいことなんてないのに」  知らないほうがいいことなんて、世の中には売るほどある。理紀の失った記憶もそのうちの一つだ。 「……ま、ムキになっちゃったあたしもバカなんだけど」  靴箱にスリッパを戻す手が、無意識のうちに止まっていた。  ――あたしは、どうしたいんだろう。  これまでどおり、理紀の記憶を封じたままにしておきたいのか。  それとも本当は、理紀にすべてのことを思い出してほしいのか。 「……理紀のバカ」  どうして理紀だけが、何もかも忘れてしまったのだろう。  あの日の出来事だけでなく……あたしのことまで、すべて。 「バカ」  靴にかけていた手に力が入る。理由はよくわからない。  悔しいのか。悲しいのか。あるいは、羨ましいと思っているのか。  理紀の姿を見るたびに、あの日の決意が揺らいでしまう。  もう二度と、理紀とはあの頃の関係には戻らないと決めたのに。  あたしだって、理紀のことは忘れると決めたはずなのに。  靴に足を通し、ゆっくりと歩き出す。開け放たれた玄関を出ると、春の陽射しが眩しく感じた。  ため息をつく。考えたくもないことに頭の中を占拠される。  どうしてこんなことになってしまったのだろう。  あの事件さえ起きなければ。  理紀があんなこと(・・・・・)さえしなければ。  そうすれば、あたしは。    ◇◇◇  あの手紙の差出人については、結局わからないままだった。  書かれていた〝手を引け〟という一言が本当に僕が記憶を取り戻すことを指しているのなら、依然として第一容疑者は淀川さんだ。しかし、担任の米村先生や始業式の日にお世話になった養護の先生も僕が記憶喪失であることは知っている。逆に言えば、淀川さんには直接僕が記憶喪失であることは話していない。彼女が僕の夢に出てくるあの女の子であるという前提に基づいて、僕らは彼女を容疑者扱いしているに過ぎないのだ。  それに、無くした記憶に関する僕と聡平の会話は、ダンス部の昼練習に紛れさせたとはいえ誰にでも盗み聞きできる状況だったし、僕が何やらこそこそ嗅ぎ回っていることは六組の室長である石垣くんも知っている。彼のことをまだよく知らない僕には、僕の失った記憶の中に何か彼にとって不都合な事実が含まれている可能性を完全には否定できなかった。  僕の頭の中に何が封じられているのかわからない以上、疑い出したらキリがない。誰も彼もが怪しく思えてきて、本当に僕はこのまま記憶を取り戻すために動き続けていても大丈夫なのかと不安になる。  週末を迎え、僕はいつもどおり午前中から塾に向かっていた。  僕の週末の予定はたいてい毎週同じで、土曜日は日がな一日塾にいる。勉強は嫌いじゃないし、できればストレートで医学部に入りたいので、高一の頃から土曜日は勉強の日と決めていた。聡平をはじめ仲のいい友達はたいてい部活があるので、遊びに誘われることもなかった。  日曜日は予定らしい予定のない日がほとんどで、誰からも声がかからなければだいたい家で漫画を読んだり映画のDVDを見たりしてのんびり過ごす。けれど今日、僕にはどうしても行きたいところがあった。  午前十時。地下鉄に乗り、(つる)(まい)線丸の内駅で下りる。今日は薄雲が空を覆っているおかげで少し肌寒い。  歩くこと、およそ十分。目的地であるところの愛知県図書館に到着した。ここへ来たのは、五年前に東京・武蔵野周辺で起きた事故や事件について調べるためだ。  建物は五階建てで、フロアガイドによれば新聞や雑誌は二階に集められているようだ。階段で二階へと上がり、書架の表示を確認しながら東京の記事を掲載している新聞の棚へと向かう。  五年前……正確な日付まではわからないけれど、退院して、自宅を引っ越すことになったのがちょうどゴールデンウィークの頃だったと思う。入院期間は二週間ほどだったらしいので、少なくとも僕が事件または事故に巻き込まれた、あるいは自ら引き起こした事件が発生したのは四月の十日から二十日前後と推定される。夢に出てくる淀川さんと思しき女の子がランドセルを背負っていたことから、もう少し幅を広げて四月の六日、あるいは七日……小学校の始業式の日あたりまでを範囲としておく。  五年前の四月六日から日付の若い順に、僕は全国紙と地方紙の東京版に目を通していった。ここが東京だったらもっと多くの種類の新聞が置いてあっただろうけれど、あいにくとここは名古屋だ。当然、東海地方を主軸とする新聞の所蔵量のほうが圧倒的に多い。  記事をざっと見て感じたのは、人口の多い東京とはいえやはり小学生が記事の主役となるような事件は少ないということだ。的が絞れている分目移りせず済むのでラッキーはラッキーだが、何せ記事自体が少ないので探し当てることそのものに多大な時間を要してしまう。文字の小さい新聞記事を何日分も読み続けるのは結構な重労働で、小さな記事だと見出しの文字すら見落としてしまいそうになる。作業開始から一時間も立たないうちに、僕は早くも()を上げそうになっていた。  正午を回ったところで昼休憩を挟み、作業を再開した直後。 「……これ」  机の上に広げた新聞の一面記事が目に留まる。あまり大きくはなかったが、見出しにはこう書かれていた。 〝東京・武蔵野の路上で小学生が切りつけられる 通り魔か〟  全国紙の東京版、日付は五年前の四月十四日だ。そして、続く小見出しの文言に、僕は目を見開いた。 〝一人は意識不明の重体 小六男子〟 「…………っ」  戦慄した。 〝武蔵野〟、そして〝小六男子〟……求めていた二つのキーワードが一気に揃い、全身から汗が噴き出した。  これだ。この記事に書かれているのはきっと僕のことに違いない。  詳しい記事の内容を確認すべく、改めて新聞の文字に目の焦点を合わせる。しかし、僕が記事を読み進めることは唐突に叶わなくなった。  金曜日の体育の時間と同じように、また僕の目の前を、記憶にない映像が走り始めた――。  見覚えのない住宅街。  民家を囲うブロック塀に、コツンと何かが当たった音がした。  刃物だった。黒い柄のそれは包丁よりも小ぶりで、アウトドア用品店に置いてあるような折りたたみ式のナイフだ。  キンと甲高い音を立てて道路に落ちたそのナイフを、僕は右手でひょいと拾い上げる。塀に当たった衝撃で刃が中途半端に折りたたまれてしまっていて、僕は左手で刃の先をつまみ、カチッとまっすぐになるようゆっくりと伸ばした。 『やめて!』  突然、誰かの悲鳴が響き渡る。女の子だ。聞き覚えがある……そうだ、この間見た映像の中で、首からメダルを提げていたあの子の声だ。 『理紀! お願い! やめて!』  僕の視界に映らないどこかから、必死に叫ぶあの子の声が聞こえてくる。  けれど、彼女の制止も虚しく、僕はナイフの柄を握り直して。  それを握った右手を、勢いよく振り上げた――。 「…………ッ!」  映像が途絶え、我に返った。頬を伝う冷や汗が止まらず、どんどん呼吸が浅くなる。 「そんな……」  僕の手には、一本のナイフが。  すぐ近くで、女の子の悲鳴が上がって。 「嘘だ」 〝小学生が切りつけられる〟  新聞の見出しが脳裏を駆ける。 「僕は……僕、が…………?」  僕が、あの女の子を切りつけた?  通り魔ではなく、この僕が? 「…………嘘、だ……っ、そん……ぁ……ッ」  ――僕は、彼女を傷つけたんだ。  ガタン、と椅子から転げ落ちる。  息が苦しい。すぅっと意識が遠のいていく。  やがて僕の目の前の景色は、真っ暗闇に覆われた。
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