第五章 動き出した決意

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第五章 動き出した決意

 眠れない夜だった。  ベッドに入り、何時間もただ布団にくるまってじっとしていたように思う。  帰宅してから、両親に五年前の事件について教えてほしいと頼むべきか悩んだけれど、何度か話を切り出そうとして、そのたびに怖くなって、結局何も訊けないままベッドに潜り込んでいた。  真っ暗な部屋の中で、紺野くんから聞かされた話を振り返ったり、断片的に思い出した記憶に改めて思い巡らせてみたり。けれど結局真実にはたどり着けず、やはり事件の当事者である淀川さん本人から聞き出すのがもっとも確実だと何度も同じ結論に達しては、そのたびにため息をついていた。何時に意識が途切れたのか、何時にはっきりと目を覚ましたのか……すべてが曖昧なまま、僕は学校に向かっていた。  午前七時五十五分。八時前に学校へ来たのはすごく久しぶりだった。まだ人の姿がまばらで、一年生の頃からこの時間の教室というのはたいてい難関大学への進学希望者の自習室と化していた。  僕が二年六組の教室に入った時、すでに登校していたのは三人。室長の石垣くん、それから(まつ)(おか)さん。石垣くんが僕を振り返って「おはよう」と挨拶してくれたのに対し、彼女は廊下側の最前列で黙々と机に向かっていた。そしてもうひとりは平野(ひらの)くんで、彼の席はちょうど弘海さんの一つ前。彼もまた僕に気づいて小さく頭を下げてくれた。  淀川さんの姿はまだなかった。いつ彼女に話しかけようか、彼女はきちんと答えてくれるだろうかと、内心そわそわしながら自分の席に向かう。ドサッ、と机の上に鞄を下ろし、静かに椅子を引いて座ろうとしたその時。 「!?」  机の中から、ルーズリーフの端が顔を覗かせていた。  座ることも忘れ、僕は即座に紙を掴み上げる。二つ折りにされたそれは、先週金曜日の午後、僕の机の中に入れられていた例の手紙とまるで同じ。  ごくりと生唾をのみ込んだ。震える手で、ゆっくりと折られた紙を開く。    〝忠 告 は し た     次 は な い と 思 え〟 「…………ッ!」  全身から脂汗が噴き出した。呼吸のリズムがおかしくなる。  前回と同じく、新聞の文字を切り抜いて貼り付け、短い文章に仕立てた宛名のない手紙だった。今日で二度目。間違いなく、これは僕宛てのものだろう。  こんなの、もはや手紙じゃない。脅迫状だ。  この学校の誰かが、僕が記憶を取り戻すことを意図的に阻止しようとしているのだ。 「小坂?」  目を見開き、吐き出す息を揺らす僕を、隣の列の二つ前の席に座る石垣くんがそっと振り返ってきた。 「どうした? 顔、真っ青だぞ?」  立ち上がり、石垣くんは僕のほうへと近づいてくる。僕は咄嗟に手紙を背中の後ろへと隠した。 「大丈夫?」  心配してくれているのがよくわかる顔をした石垣くんに、僕はどうにか「平気」と答えた。 「……あのさ、石垣くん」 「ん?」 「君が今日この教室に一番に来た人?」  僕の質問に、石垣くんは少々面食らったようだった。眉を上げ、「いいや」と小さく首を振る。 「なぁ、平野。君が今日最初に来た?」  石垣くんは僕の肩越しに平野くんに呼びかける。平野くんは顔を上げ、「そうだよ」と答えた。 「七時四十五分くらいかなぁ? ほとんど同時に松岡さんも来たけど」  ねぇ? と平野くんは松岡さんの背中に問いかける。松岡さんは振り返ることも顔を上げることもせず、けれどはっきりと首を縦に振って同意を示した。一応話は聞いていてくれたようだ。 「ねぇ平野くん、君が教室に入った時、ここで誰かと会わなかった?」  早口で問いかけると、平野くんは「いや」と眉間にしわを寄せながら首を横に振った。 「おれが来た時は誰もいなかったよ。廊下でも誰ともすれ違わなかったし……他のクラスに誰が来てたとか、その辺はよくわからんけどね。じっくり見てないから。なんでそんなこと訊くの?」 「あ、いや…………なんでもない。ありがとう」  背中の後ろに隠したままだった手紙を、僕は適当に小さく折りたたんでズボンの左ポケットへねじ込んだ。首を傾げる平野くんと石垣くんに会釈して、僕は鞄を机の上に放置したまま、早足で廊下へと飛び出した。  前回『手を引け』と書かれた脅迫状を受け取ったのは先週の金曜日。日曜日に愛知県図書館で五年前の新聞記事を当たろうと決めたことは誰にも話していないし、図書館で誰かと会うようなこともなかった。けれど月曜日の朝一番で僕は体調を崩していることから、土日のうちに何らかの動きがあったことは容易に想像できるはずだ。確かあの日、三時間目の授業を受けるべく保健室から自分の教室へ戻ろうとした時、背後に誰かの視線を感じた。やはりこの学校の誰かが僕の言動をチェックしていると考えて間違いない。  そして昨日、僕と聡平は新たな情報を得るために、ジャーナリストである明神学園高校の二年生・紺野くんと名古屋駅で落ち合った。彼と会って話をする予定だったことは学校でも何度か口にしていたので、僕らの動きについてどこかから情報を掴むことは可能だった。それに、昨日利用したあの店で、僕らはクラスメイトに会っている。 「……弘海さんが……?」  一階まで階段を下りきり、南館へとつながる渡り廊下に差し掛かったところで、僕の足はぴたりと止まった。  そう、昨日あの店で僕と聡平が紺野くんと会っていたことを知っているのは、クラスメイトである弘海さんを含めた野球部のマネージャーさんたち三人。弘海さんを除く他のふたりは同じ二年生だけれど別のクラスだし、僕との接点はほぼゼロなので無関係だと考えていいだろう。しかし、弘海さんはどうだろうか。  彼女は淀川さんにとってこの学校に転校してきてはじめてできた友達だし、もしかしたら隠しているだけで淀川さんから僕のことをいろいろと聞いているのかもしれない。聡平はしっかりと口止めしていたけれど、もし万が一彼女が昨日僕らと紺野くんに名駅で会ったことを淀川さんに話してしまっていたとしたら?  高校の門が開くのは午前七時二十分。部活動の朝練が始まる十分前だ。今日一番に二年六組の教室へ来たという平野くんが登校したのは午前七時四十五分。それまでの間に登校して僕の机に例の脅迫文を入れておくことは十分可能だし、早く来れば来るほど誰かに見られる危険性は低くなる。弘海さんは現在野球部の朝練に出ているので――野球部の朝練は毎週水・金曜日に行われている――、彼女自身があの脅迫文を僕の机に入れることもできる。彼女にとっては自分のクラスでもあるので、朝練の前に立ち寄ったって誰にも怪しまれることはない。  ……いや。  首を振り、再び足を動かし始める。  さすがに考えすぎだ。たとえ弘海さんと淀川さんが仲のいい友達だからといって、彼女たちはまだ出会って一週間しか経っていないのだ。聡平から口止めされたことを忘れてうっかり誰かに昨日名駅で僕らと会ったことをしゃべってしまったというのはあり得る話だけれど、いくらなんでも淀川さんに頼まれてあの脅迫文を作り、僕に送りつけたのが弘海さんであるとする推理は無理が過ぎる。  犯人は別の人間だ。教室に姿はなかったけれど、ひょっとすると淀川さんがやったことなのかもしれない。石垣くんの話によれば淀川さんも僕らについて探っているようだし、弘海さんからもいろいろと訊きだしているのだとすれば、その流れの中で彼女が僕らとの遭遇について口を滑らせてしまったという可能性は大いにある。  思考を巡らせながら歩を進め、僕は目的地である保健室へとすべり込んだ。 「おはようございます」 「あら、おはよう」  槙野先生はまだ保健室にいた。八時十五分から職員会議なので、もう職員室へと行ってしまったかと思っていたけれど。 「どうしたの? こんな朝早くから」 「……少しだけ、ここにいさせてください」  まっすぐ処置台に向かいながら、僕は小さくお願いした。先生は黙って椅子を勧めてくれて、僕は迷わず腰かける。  不思議だ。何をするわけでもないのに、ここへ来ると心が落ち着くような気がする。南側の窓から差し込む穏やかな春の陽射しが、ここ最近ずっと僕の体を覆い続けているほの暗い影を蹴散らしてくれるようだった。 「体調はどう?」  デスクで書類の整理をしながら、槙野先生が優しい口調で問いかけてきた。 「ぼちぼちです」 「そう。なら、どうしてここに?」  その質問にはうまく答えられなかった。どうしてここへ足が向いていたのか、僕自身にもよくわかっていなかった。 「教室にいづらい?」  先生は立ち上がり、処置台のそばに置かれていた丸椅子を引き寄せて僕のすぐ目の前に座った。 「そんなこと……ない、です」 「無理しなくていい。ここはそういう場所だから」 「本当に違うんです! いい人ばかりだし、聡平だっている。でも……」  無くした記憶に近づこうとすればするほど、うまく息ができなくなる。どうして記憶を取り戻すことを恐れられなければならないのか、その理由がわからない。  やはりあの脅迫状のとおり、僕はこれ以上、失った過去に踏み込まないほうがいいのだろうか。無くしたままで、今の幸せだけを求めて生きていくべきなのだろうか。  あの手紙には『次はない』と書かれていた。つまり、このまま過去を求めて動き続ければ、今度はただの脅迫では済まない何かが起こるということ。  脅迫ではない、何か。それは……? 「小坂くん」  先生の声に顔を上げる。気がつけば、僕はまたしても呼吸を見失いそうになっていた。  先生は、少し困ったように息をついた。 「話せるなら、話してごらん? 楽になれるかもしれないから」  何かあったんでしょ? と先生は優しく肩をさすってくれる。手のひらから伝わるぬくもりが、そっと僕の背中を押してくれたような気がした。 「……僕、小六より前の記憶がなくて」  訥々と、僕は語り始めた。 「ちょっと理由があって、今、無くした記憶を取り戻すために動いているんです。でも、僕以外の誰かがそれをよく思っていないみたいで……」 「君が記憶を取り戻すことを?」  はい、と僕はうなずいた。 「脅されました。脅迫状を送りつけられて。このまま記憶を取り戻すためにいろいろと探り続けていたら、僕……殺されちゃうのかも」  ポケットにしまった例の手紙を先生に差し出す。内容に目を通した先生は驚愕の表情を見せた。 「これ、今朝?」 「はい。机に入ってました。先週の金曜日にも同じことがあって」 「米村先生には話した?」 「まだです。やっぱり報告したほうがいいのかな……?」 「そうね、一度相談してみるといいかもしれない。ただのイタズラであればいいんだけど、事情が事情だけにそうじゃなかった場合のことを考えて……ね?」  わかりました、と僕が答えると、先生は立ち上がってデスクから書類の束を抱え上げた。 「ごめん、会議に行かなきゃ。君はまだここにいてもいい。米村先生には私から少し話しておこうか?」 「じゃあ……お願いします」  了解、と先生はうなずき、扉に向かって歩き出した。 「先生」  その背に向かって、僕は一つ問いかけた。 「槙野佳恵さんという人を知っていますか?」  振り返った先生は、怪訝な表情で僕を見やる。 「……それは君の記憶喪失と関係のある話?」 「あるかもしれないし、ないかもしれないです」 「そう……けどごめん、私は知らない。主人の親戚にもそんな名前の人はいなかったはず」 「えっ、先生結婚してるんですか?」 「そうよ。ちなみに旧姓は中江(なかえ)」  先生は顔の横に甲を向けた左手を掲げた。 「観察力が足りていないようだね、少年探偵くん?」  ニヤリと笑うすぐ隣で、薬指に収まる結婚指輪がキラキラと輝いていた。  その手を振って、先生は今度こそ保健室を出て行った。呆気にとられた僕は、しばらくその場に座り固まっていた。
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