第二章 東京エンカウンター

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第二章 東京エンカウンター

「あの電話のあと、オレなりにいろいろと調べてみたんだけどな」  翌日、昼休み。  メインストリート沿いに整備されている中庭ではダンス部の昼練習が行われており、曲名もアーティスト名もわからないが、アップテンポな洋楽に合わせて十人ほどの女子生徒が軽快なステップを踏んでいた。  彼女たちのおかげで、この時間の中庭はたいてい大きな音に満ちあふれている。校舎内の片隅でこそこそ隠れて話をするよりも、彼女たちのように堂々としていたほうが変に怪しまれずに済むのではないか、というのは聡平の考えだった。僕らの話し声はボリュームを落としさえすれば彼女たちの流す音楽が掻き消してくれるし、端から見れば僕と聡平は、うららかな春の陽気に包まれる中庭で仲睦まじくベンチに座ってランチタイムを楽しんでいるだけ。まさか僕らが記憶の取り戻し方について真剣に議論しているなどとは誰も思わない……なるほど名案だった。無論、誰から怪しまれないようにしているのかは言うまでもない。 「無くした記憶ってのは普通、時が経つと自然に取り戻すことができるものらしいぞ」  えっ、と僕は箸を握る手を止めた。 「そ、そうなの?」  あぁ、と聡平はおにぎりの包まれたラップを剥がしながら言った。 「ネットで拾った情報だから信憑性は低いかもしんねぇけど、いくつかサイトをめぐって得た情報を総合的に見てみると、どうもそういうことみたいでさ」 「じゃあ、僕の記憶はどうして……?」 「それなんだけどな」  聡平は左手だけで器用にラップを丸めながら僕を見た。 「……これはあくまでオレの勝手な憶測だぞ?」 「うん」  思わず生唾をのみ込んでしまう。神妙な面持ちでそんな前置きを据えられたら無駄に緊張するじゃないか。  一呼吸置いて、聡平は自らの考えを告げた。 「おまえの記憶喪失の原因はたぶん、頭をぶつけたことじゃねぇ」 「…………は?」 「根本的な原因は、おまえ自身が過去を忘れたいと思う気持ちだよ」  聡平のたどり着いた結論は、僕の理解をはるかに超えていくものだった。 「……ちょ、ちょっと待ってよ」  本気で意味がわからなかった。背中に変な汗をかく。 「僕、過去を忘れたいなんて思ったことない! 現にこうして忘れてしまったことを思い出しそうとしてるわけだし……っ」 「落ち着けって。ちゃんと順番に説明してやるから」  苦笑いで、聡平はガブリとおにぎりに食らいついた。……いやいや、食事の前にきちんと説明してもらいたいんですけど。 「何度も言うけど、これはオレが勝手に考えた、いわば妄想に近い話だ。何の確証もない」  ごっくんと口の中身をのみ込んでから、聡平は真剣な目をして語り始めた。 「人が記憶を失う時、考えられる原因は主に二つ。一つは頭部への外傷……おまえもそうだって言ってたよな」 「うん」 「確かに、頭を強く打つことで記憶が吹っ飛ぶことはあるらしい。けどさっきも言ったとおり、そうした一時的な記憶喪失ってのは時とともに回復するのが普通なんだと。で、おまえが頭を打ってからすでに五年もの時間が過ぎてる」 「……つまり、本来なら僕はとっくに記憶を取り戻していてもおかしくないってこと?」 「イエス。ただし、当然ながら例外はある。おまえがその例外にたまたま当たっちまった可能性を完全には否定できない」 「でも君は、そうじゃないと思ってる?」  ザッツライト、と聡平は真剣な顔で言った。 「そこで、考えられるもう一つの原因だ」 「もう一つの原因?」 「そう。おまえが記憶喪失になったのは頭を打ったせいじゃなくて、心因的……つまり、過度なストレスによるものなんじゃないかって説だ」  ――ストレス。  無意識のうちに、僕は聡平の紡いだその言葉を口の中で転がしていた。「そうだ」と彼はうなずく。 「人間ってのは、嫌なことがあったり、強烈な恐怖体験をしたりすると、脳が勝手にその記憶を封じてしまうことがあるらしい。いわゆる防衛本能ってヤツだ。怖い目に遭ったこと、つらい経験をしたことを二度と思い出したくないっていう深層心理が働いて、無意識のうちに心に負った傷を塞いでしまうんだと」 「じゃあ僕も、僕の知らないうちに自分自身で過去の記憶を封じ込めてるってこと?」 「そうと決まったわけじゃねぇけど、今でも昔のことを思い出せずにいる理由としては、そっちの可能性のほうが納得できねぇか? オレだって専門家じゃねぇから詳しいことはよくわからんが、おまえの場合、文字の読み書きとか算数とかは問題なくできるのに、自分自身の人生にかかわる記憶だけが綺麗に飛んじまってる……脳が都合よく忘れさせたって考えたほうが自然だろ」  確かに、聡平の言うことは理にかなっている気がした。事実、僕は過去を忘れてしまってはいるものの、今という時間を楽しく過ごすことができている。それが僕の無意識による選択で、五年もの間その作用が働き続けているのだとすれば、一応の筋は通る話だ。  僕の意識的な命令がなくとも、本能が勝手に過去を封じ続けている……自分の手の届かないところで起こっていることなので、これもある種の恐怖かもしれない。 「でもさ、聡平。もし君の言うことが正しかったとするなら、僕はどうやって記憶を取り戻せばいいの? 僕の本能による作用ってことは、僕自身にはどうすることもできないんじゃない?」 「そうなんだよなー……。あんまりこういうことは言いたかねぇけど、自分で自分の記憶を封じるなんて異常だぜ? めちゃくちゃやばいことがあったとしか考えらんねぇよ」 「だよね……」  他意はなかったのだろうけれど、聡平の一言は、僕の心に渦巻く不安を大きくするには十分すぎた。 「どうしよう……やっぱり僕、殺人犯だったのかも」 「ばか、やめろよ」  頭を抱える僕に向かって「ったく……」と吐き捨てて、聡平は坊主頭を小さくかいた。 「おまえってさぁ、賢いくせにどっか短絡的なとこあるよな。やばいこと(イコール)殺人って、なんでそんな風に簡単に決めつけんだよ」 「いや、だってさ……!」 「まぁ、見えない過去への不安が冷静な判断力を奪っちまってるって言えば聞こえはいいけどな」 「あ、今ちょっとバカにしたでしょ」 「んなことねぇって! オレはただ、いろんな可能性が考えられる現時点での決めつけや思い込みは排除すべきだって言いたかっただけだ」  ふぅん、と僕が睨みつけると、聡平は視線を逸らしておにぎりにかじりついた。  しかし、聡平の言うことはもっとな意見だった。  聡平の見立てどおり、もしも本当に自ら記憶を封じたくなるほどの危険や恐怖が僕の身に降り注いでいたとするなら、頭を強く打つことになったのもその出来事に関係していると見て間違いない。何らかの事件に巻き込まれたのか、あるいは僕自身が事件を引き起こしたのか……被害者にせよ加害者にせよ、頭部の外傷がただの事故によるものでない可能性は高い気がする。  僕が記憶喪失になった原因が何らかの事件によるものだったとすれば、その事件がどんなものだったのかがわかれば必然的に僕が記憶を失った原因についても明らかになるはずだ。けれど、このアプローチだといきなり大きな壁にぶつかることになる。  ――僕は、自分の出身地を知らない。  どこで事件に遭遇したのかがわからない限り、事件については調べようがないのだ。わかっているのは、名古屋以外のどこかだということだけ。時期を五年前の四月に、そして被害者あるいは加害者を小学生男子に限定すればある程度の数までは絞れるだろうけれど、それでも全国の事件を総ざらいすればケンカも含めて何十件とあるに違いない。  そもそも僕らが事件の詳細を知る手段なんてネットや新聞くらいなものだ。たとえば殺人事件の被害者である場合や行方不明者である場合なんかは除いて、事件の当事者である小学生の名前が報道されることはまずない。現に僕はこうして生きているわけだし、もし本当に何らかの事件に関わっていたのだとしても、ネットや新聞から僕の名前を拾うことは難しいだろう。  とすれば、僕らがいの一番にやるべきことは。 「……ねぇ、聡平」 「あん?」 「父さんや母さんに尋ねる以外に、僕の出身地を知るいい方法って、何かないかな?」
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