① 与える男

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 俺が脳腫瘍になる前、一度来たことがある。  店舗は、遠鉄百貨店の裏に地下鉄の入口のような入り口があり、そこから下ると店の玄関がある。  確か、テーブル席が十数席あり、カウンターもあったはずだ。  普段の土日などは若い客で混雑している人気店だ。俺みたいなショボいおじさんが一人で呑むには不似合いな店と思える。  しかし、今日はまだ早い時間だ。そして連休明けだ。店内にお客は少ないだろう。  俺が入っても違和感はないのではないか。    そう睨んで、"地下鉄入り口"に向かった。  店の玄関前は、入店待ちの椅子が並んでいる。この時間は入店待ちはいない。  俺は思いきって、店の戸を引いた。  「いらっしゃい!」  威勢の良い声が響いた。やはりこうした感じは苦手だ。  すぐに、店の奥に向かった。カウンターがある。  俺は、するりとそのカウンターの端に座った。  カウンター越しには厨房があり、ガラスで囲まれている。そのガラスが目線の高さ程に張られていて、中では従業員が忙しそうに焼鳥の仕込みをしている。  普段なら絶対に入らないタイプの居酒屋だが、今日は特別だ。  名古屋での"交渉"は少々疲れた。  早く酒を喉に流したい。  俺は、軽く手を挙げた。  気付いた従業員が仕込みの手を止めて、「はい、ご注文で?」と尋ねて来た。  俺は無言でメニュー表を彼の目線まで上げて、日本酒とおまかせの串盛を指差した。  「日本酒は冷で?」  俺はまた無言で頷く。  「はい、ご注文いただきましたぁ!」と景気の良い声で了承すると、従業員は俺の注文に取りかかったようだった。  この一連の行動が俺には大きなネックなのだ。  俺は7年ほど前に脳腫瘍になり、言葉が不自由になった。喋れないわけでは無いが、その言葉は不明瞭で呂律が回らない。初対面の人から聞き返される可能性が高い。  そういう事情が以前から出入りしている次郎ならば、理解されているが、そうではないと不思議な顔をされたり、通じなかったり、終いには「何でそんな声なんだ?」と訊いてくる奴がいる。  俺にはそれが非常に苦痛だ。  相手からしたら、親切心や、俺を理解しようとする行動なのだろうが、俺は仕事以外では自分の不明瞭な声を聞かれたくないのだ。 そういう意味では、次郎は俺の意志を汲んでくれる有り難い居酒屋だ。そこで飲めないのは少々辛いが、たまには良いだろう。  そうしている間に焼き鳥の盛り合わせと、日本の冷やが出てきた。  これで合わせて1000円以下。  特にこだわりの無い俺には満足の行く料金設定とボリュームだ。
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