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その日は土曜で、朝から晴れて暑かった。
キシは台所でペーパードリップの用意をして、火にかけたケトルを眺めている。僕はテーブルに肘をついて、彼の前髪が額にかかる様子を見ていた。
映画に行ってみない、と言われて、スマホで近所の映画館のスケジュールを調べたが、今ひとつピンとこなかった。キシは眼鏡の位置を指で直して、僕が見ているのに気づく。
「映画調べた?」
「調べたけど、よくわからん。キシさんが見たいのでいいよ」
「そうですか」
彼はケトルを高く持ち上げてお湯を注ぎ、またコンロに戻すのを繰り返していた。
「昔、コーヒーメーカーあったね」
「あの安っぽいやつ?よく憶えてんな」
彼はちょうどケトルを持ち上げたところで、僕を見ずに答えた。
コーヒーを入れたマグカップを二つカウンターに置いてから、キシはこっちに回り込んできた。僕が立ち上がろうとすると、
「ああ、いいよ」
と言って、僕の前にマグカップを置いてくれて、自分のを持って、窓際のソファーに向かった。
「こっち来る?」
「うん、あとで」
キシは全く気にしていないようだが、薄いブルーのソファーにうっかりこぼしそうで、飲み物を持って座るのはいつも遠慮していた。
テーブルに置かれた白いマグカップに太陽の光が当たって、黄金色に見えた。湯気がゆっくり上がっている。
キシはソファーに座ると、コーヒーを一口飲んでから、後ろに寄りかかって伸びをした。
「ああいう機械が当時好きだったんだよな。あ、コーヒーメーカーの話ね」
「うん」
「コーヒー、まずかったよね」
キシは笑いながら言って、僕も笑った。
「でも、あのコーヒーは楽しみにしてた」
「なんで」
「えっ?キシさんが入れてくれるから」
僕は熱いコーヒーを少しだけ飲んだ。キシは眼鏡を指で押し上げて僕を見ながら、グレーのスウェットの脚を組んだ。
「あの部屋、まだあるんだよ」
「どういうこと」
「あそこは、うちの家族が昔から持ってる古い物件なんで」
あの部屋の様子は、九年経ってもすぐに思い浮かべることができた。玄関脇のバスルーム、短い廊下、キッチンカウンターの前の小さなテーブルセットと、その向こうのベッド。
キシがシャワーを浴びに行って一人になると、いつも部屋の中を見回して、ここに来るのはこれで最後になるかもしれない、と思った。
「好きだった、あの部屋」
マグカップの少し熱い取っ手を掴んだ指が金色に染まって、本当に最後にあの部屋を出て、駅に向かって歩いた時の朝陽の眩しさを思い出した。
僕は、子供のように声を上げて泣きながら歩いた。それとも、心の中だけで泣いたのだったか。
「上野、またあの部屋、見てみたい?」
自分の泣く声の残響がまだ心にあって、上の空で、どうだろう、と呟く。
キシは、ソファーの前の低いテーブルからマグカップを持ち上げたが、口を付けずにテーブルに戻して、もう一度僕を見た。
「上野くんさ」
「うん」
「一緒に住まない?」
まるで、急に目の前の窓が開いて、風が吹きつけてきたようだった。鼓動が早くなり、僕は胸を押さえた。
キシは組んだ脚を戻し、両足を床につけた。長い足の指と木の床に太陽の光が当たって、どっちも金色に輝いて見えた。
「そんなに驚かせると思わなかった。大丈夫?」
自分も驚いた顔をして、キシが尋ねる。
「いや、大丈夫じゃないけど」
何とか、声を出した。
「一緒に住むって?」
「一緒に部屋探してもいいし、あの部屋がよければ、狭いけどあそこでもいいよ。もし、ここが気に入ってるなら、長く借りられるようにするから」
言い終わると、キシはマグカップを持ち上げ、今度はコーヒーを飲んでから、テーブルに戻した。
その様子を見て、何故か体の奥が熱くなった。
「ほんとに、本気で言ってるの」
「本気。俺、上野に嘘ついたことないよね」
静かな声だった。
「どうせずっと一緒にいるんだから、俺はそうしたい。アナタは?」
キシと一緒にいられるなら、他に何も望むものはない。
心の底のあの深い焦がれが、キシに向かって手を伸ばし、僕の体を震わせた。
「キシさんは、どこにも行かない?」
答えはわかっていたけど、聞かずにはいられなかった。
カーテン越しに射し込む光の中で、キシは僕を見つめた。
「俺はどこにも行かない。お前が何をしても、しなくても、一緒にいたい」
珍しく照れた顔で、ちょっと顔を伏せてから、彼はまた僕を見た。
「お前はどうなの。どこにも行かない?」
キシの目は、白い光を重たげにきらめかせて、僕を見ていた。
「僕は、キシさんと一緒にいる」
「じゃあ、一緒に住む?」
「うん」
キシは、ふふっと声を出して笑った。
「ありがと、上野くん」
こんなに嬉しそうな顔をする人だったか。
渇いた切望は、胸の奥から湧き出す温かさに溶けていく。
それは、キシに触れた時の感覚に似ていた。行き交う電流、境界線の消滅、心地よさに声を失う、あの愛の感覚に。
「キシさん、ありがとう」
「おいで」
キシは、僕に向かって手を伸ばした。
その手を取ると、キシと僕に天から光が降り注ぐ。光は降り注ぎ、降り注ぎ続ける。
いつか二人がここから消えて、体も心もキスも言葉も失われて、もし僕たちに魂があるのなら、一つになって永遠のしじまに溶ける夢をみるだろう。
そして、光はここに降り注ぎ続ける。その光のために、僕たちは出会った。そして、お互いの手を取り合って、もう離れることはないのだから。
―完
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