その魔法書、誤植があります! 女校正者の王宮事件簿

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 ◇ 「えっ、1文字0.35円ですか?」  悠里は思わず聞き返した。  出版社の会議室で、テーブルを挟んで黒縁眼鏡の女と若い男性編集者が向かい合っていた。テーブルの上には白い紙の束、ゲラと呼ばれる校正刷りがあった。 「でも、この前1文字0.4円になったばかりじゃないですか。それで今度は0.35円なんて……」  必死に食い下がる悠里に、編集者は難しい顔をした。 「申し訳ありません。ご存じのとおり、出版不況で紙の本の売り上げが年々減っていまして……少しでも経費を削減するように、上から言われているんです」 「でも、もともと製作原価を減らすためにページ数が減ったじゃないですか。これで単価が下がったら……」  細かい話だが、高齢読者のために文字のQ数を大きくしたので文字数も減っている。これ以上、収入が減るようなら、校正者以外の仕事も掛け持ちしなくてはならない。  といっても、校正以外にスキルのない36歳の女が働ける場所など限られている。  編集者が言いにくそうに続けた。 「実はもう一つあります。今後はスペースを含まない厳密な文字数でお願いできないでしょうか」  スペースとは文字の間にできた空白だ。たとえば「1文字0.35円ですか? そんなのあんまりです」という文章があった場合「ですか?」と「そんなの」の間に空白スペースが1文字分ある。これを〝1文字〟としてカウントしないと言っているわけだ(かなりセコい)。  会議室に気まずい沈黙が落ちる。お願いできないでしょうか、と口では言っているが、事実上の通告である。校正者などいくらでも替えが効く。嫌だと言えば、仕事がなくなるだけだ。 「……わかりました」  悔しさを押し殺して悠里は答えた。  ありがとうございます、と編集者は淡々と答えた。 「では、次のゲラもよろしくお願いします。締め切りは先ほどお伝えした通りです」  テーブル上のメモ帳を閉じ、男性は椅子から腰を上げた。  ◇  建物の外に出ると、肌寒い空気が首を撫で、悠里はコートの襟を寄せた。  街路樹から落ちた木の葉が歩道に積もっている。  季節は11月下旬。陽が落ちるのが早く、18時にはもう薄暗くなっていた。辺りには帰宅の家路につく人の姿が多かった。  どうしよう……また収入が減っちゃう……。  悠里は胸を押さえて歩道にうずくまった。心室期外収縮という持病がある悠里は、自律神経の乱れが動悸の不調につながる。  そばを人の足が通り過ぎていく。都会は他人に無関心だ。うずくまった程度では誰も声をかけようとはしない。  地方の私立大を卒業後、東京に出てきて中堅出版社でアシスタント業務をやっていたが、5年前に契約を切られ、それからはフリーの校正者で食ってきた。今年36歳。ずっとアパートで独り暮らしで、貯金もたかがしれている。  子供の頃から、悠里は本が大好きだった。出版社で編集の仕事をしたかったが、出版不況で採用自体が少ない上に、無名私大の文学部では就職は厳しかった。  せめて本作りの現場の近くにいたい――そんな悠里が見つけたのが〝校正者〟という仕事だった。昔から活字を読むのはまったく苦痛にならない。細かな性格も向いていた。  ただ、そんな校正の仕事も年々、厳しさを増していた。  校正費は、経費削減のターゲットになりやすい。ほとんど素人同然の人間をかき集め、激安で仕事を請け負う校正会社が増えた影響もあり、仕事は減っていた。  動悸が落ち着くのを待って悠里は立ち上がり、とぼとぼと地下鉄の駅へ向かった。
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