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■ ■ ■
ビルの前で1人の男が呆然としていた。
くたくたの黒い背広を着た、いかにもサラリイマンといった風情の男だ。どこか焦ったような顔つきで、掌の紙切れと目の前の建物を見比べている。
そこは象牙色に塗られたアール・デコ様式の建物だった。1階にはカフェーが入っているらしい。華やかで上品な扉が客人の訪れを待ち構えていた。
男ーー弥七郎はこのビルの2階に用事があった。
心に抱えたどうしようもない澱みを解決するにはこうするしかないと。それ故にカフェーの脇にある階段の前までやってきたのだが、ここに来て弥七郎の胸に迷いが生じたのだ。
(小説の世界でもあるまいし、探偵なんて……)
本当に信用できるのだろうか、と弥七郎は唇を噛んだ。ただでさえ薄い財布を薄くして、ろくに能力のない探偵を雇ってしまったらどうしようかと。物珍しい背広を着たサラリイマンの手当てが薄給も良いところなのは、東京の人なら誰もが知るところだった。
「あの、うちに御用ですか?」
二の足を踏んでいるところに声がかかった。凛とした良く通る中性的な声だと思った。
振り返ると黒いかっちりとした背広の上に真っ赤なコートを羽織った青年が、薄く笑みを浮かべて立っている。20歳に届くかどうかといった年ごろだろうか。
青年は目が合うと愛想良く会釈して、ビルの2階を指差す。
「私、そこの探偵事務所の従業員でして」
「何かご依頼でしょうか?」と柔らかな声色で尋ねる青年に、弥七郎は緊張を少しばかり緩める。青年の雰囲気があまりに清涼だったせいかもしれない。
「実は、迷ってまして」
「へえ」
「従業員の方に訊くのも失礼かとは思うのですが、ここの探偵さんは事件の捜査もしてくださるというのは本当ですか?」
探偵が殺人事件の捜査に加わるのは、小説の中だけの話だ。一般的な探偵の仕事は身辺調査などが良いところ。
ところがこの探偵事務所では、殺人事件や窃盗事件などの警察が扱うような事件の依頼しか受付ないのだという。
そのような一線を駕したところの噂であるから、当の探偵にまつわる噂も、実は天の使いであるとか、西洋から来た妖術使いであるとか、一目で全てを言い当てることができるなんていう突拍子もないものだ。小心者の弥七郎が不安に思うのも無理のないことだった。
「ええ、本当ですよ。所長はつまらない案件は受けたくないとかで」
「え、じゃあ天の使いだとかも?」
「それはガセですね」
青年は「ちゃんと人間です。ちょっと悪魔寄りですけど」などと言いながら鈴を転がすように笑う。
「事件の捜査なら大歓迎です。能力"だけ"は保証しますよ」
にっこり笑う青年の言葉にわずかな棘を感じて弥七郎はたじろぐ。もしかすると、青年は所長の事が嫌いなのかもしれない。
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