窓辺の妻

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パチンと音がしたので妻の方を見ると、右の白い二の腕に、ポツンと赤い血の跡が付いていた。  「もう蚊が出るのね」  窓枠に腰掛け、外の景色を眺めながら妻は言った。長い黒髪が揺れ、仄かに甘い香りが部屋に漂う。  「今年はやけに早いな」  僕はつと立ち上がり部屋を出ると、汗ばんだ胸元をパタつかせながら階段を下りた。  アパートの前ではランニング姿の男の子達が、日射しを存分に浴びながら、かけっこを始めていた。騒がしくもあり好ましくも思えるはしゃぎ声も、妻はあまり歓迎していない。  やがて暑さも本格的になり、子供達も外に出なくなると、今度は蝉の声が妻を悩ませる。窓を閉めて冷房をつけようとすれば、果たしてそれも嫌だと言う。  そんなとき僕は扇風機の風を浴びながら、汗をかかないよう窓辺の妻を団扇で扇ぐのだ。ちょっとした幸せを感じながら。    商店街に着くと、まだ時間も早いためか人の姿は無かった。唯一開いていた店のテントには、「雑貨」のニ文字だけが薄く残っている。僕は店の前に行きカウンターに人がいるのを確認して、キュルッと鳴るガラス戸を開けた。  「おお、いらっしゃい。早いね。」  新聞を捲る手が止まり、眼鏡の奥の丸く垂れ気味の目がこちらを向いた。  「おはようございます。蚊取り線香を買いに来ました」  「ああ、もうそんな季節か……」  店主は意味ありげに外を見たあと、白い口髭を掻きながら奥に行き、箱入りの商品を持ってきた。  「六十本入りのでいいよね。年々夏が長くなってきてるから、これでも足りないかな」  「そのときはまた来ます。どうせ他に買い物もするでしょうし」  「ああ、もうじきうち特製のセミホイホイも、ゴキブリホイホイの隣に置いとくつもりだから。ハハハハハハ」  「セミホイホイ?」  本当にそんな商品があるのかと聞こうとすると笑いが止まったので、冗談であることに気がついた。  「相変わらず真面目だね。そういえば今日も奥さんを見かけたよ。窓際が指定席みたいだね……。えっとゴキブリホイホイは本当にあるよ、うちの女房なんて一匹見ただけで悲鳴をあげちゃってさ」  「はい……さすがにそれは分かります。というか去年も買ってるし。あ、じゃあついでに買っておこうかな……」  僕は品物をまとめて受け取り料金を支払うと、店を後にした。    アパートの前では男の子達が、夏服を着た若い会社員風の男と遊んでいた。見ない顔だったが、「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と懐かれているようで、一緒になって笑っていた。  部屋に戻るとシャワーの音が聞こえたので、僕は卓袱台の上にあったアンズ油を手に取った。  「今年はやけに早かったな。去年もこの辺りが多かったっけ」  ゴキブリホイホイの中に油を一滴垂らし、台所の隅に置いてみる。予想通り効果は覿面だった。  コソコソと、どんな隙間にも入り込むゴキブリ野郎の"間男”が、甘い香りに誘われて、早速一匹冷蔵庫の下から這い出てきた。  外にいた奴の同僚か、同じ装いをしている。真横で見ている僕すら目に入らないほど香りに気をとられているのか、スルスルと容器に入ってしまった。そんなに妻の隙間が居心地の良いものなのか。  「お帰りなさい」  妻が髪を拭きながら浴室から出てきた。  「汗かいたんだ」  僕の声掛けを受け流して、妻は窓枠に腰を下ろす。  子供達の声は聞こえてこない。妻が窓から逃したゴキブリも、もう逃げたようだ。  僕は足元の入れ物を踏み潰そうとして、思い止どまった。このまましばらく置いとかなくては。なんせ奴等、一匹見たら何匹潜んでるかって。  そのうち妻も雑貨屋の女房みたいに、一匹見ただけでも嬉しさのあまり、悲鳴をあげるようになるのだろうか。  妻を団扇で扇ぎながら、僕は考えを巡らせる。隙間が生まれるほどに、彼女を悩ますものの正体はなんだろうかと。とりあえず今思いつくのは……。  「セミホイホイ、欲しいもんだなあ」  「そんなもの……あるの?」  外を眺めながら訊ねる妻の声は、少し気怠げだった。
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