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灰色の地面の上に倒れたくまは少し汚れていた。それを見て、くまが寝ている、とわたしは思う。
世界は汚れたぬいぐるみを気に留めない。人ごみの雑踏の中では、周りを気にする余裕の空気が流れていない。わたしも世界の一部だったら、きっとくまを気に留めなかっただろう。けれどわたしは今、世界から断絶していた。───つまり、失職中であったのだ。
迷い子。迷いぐま。
わたしは呟いてくまを持ち上げる。くまはつぶらな瞳でわたしを見ている。傍から見たらやばい女だろう。
けれど就活スーツやパンプスは確実にわたしから人権を奪っていたし、他人に気を遣えるものは自身に余裕のあるものだけなのだから、しょうがない。わたしは就活用の黒い革のバッグに、中が汚れるのを厭わずくまをいれると、くまの顔の半分がバッグから覗く。
くまは黒いバッグから人ごみの世界をみている。外側の人間はあまりくまに気がつかない。あとで交番に届けてあげよう、とわたしは思いながら、面接の会場へと歩みを進めた。
今日受ける会社は、ビル群の中の一つにあった。
大き過ぎず小さ過ぎず、無職の身からすれば、雇ってくださいの気持ちでいっぱいだ。
わたしは受付に行く、相変わらずくまは顔を覗かせている。受付のきれいな女性はカウンターに隠れたくまに気づかない、もしくは気づかないふりをする。指示されたのは、5階であった。
くまはバッグからたぶんわたしを応援していたような気がするが、それが逆効果であった気もする。
今日受けた会社では面接の場所にバッグを持っていく形であった。
人ごみはくまを認知しなくとも、面接官はさすがに気がつく。
さまざまな事務的な応答の後に、面接官はくまについて尋ねた。なにそれ。道端で拾いました、あとで然るべき期間に届けるつもりです。
平然というわたしは異様であっただろうか。面接官は苦笑いをしている。わたしはもうヤケになってにこにこと笑っている。次行こう、次、など思う。
######
都会のアスファルトは暑くて固い。
実家に帰っても継ぐような家業のないわたしは都会を彷徨っていて、傍にはくまがある。
スマートフォンの地図アプリで交番を探していると、携帯は震える。またどこかの人事に祈られる。けれど、交番はすぐそこにあった。
くまの持ち主は幼い少女であれば、この子を捜しているかもしれない、というのがわたしの希望的観測であった。何もない日常から善行を積みたかったとも言える。
交番には退屈そうなお巡りさんがいた。
わたしは話しかけ、くまを渡す。
くまを捜す少女とくまの再会を夢想して、自尊心を満たす。
交番の机の上にいるくまはつぶらな目でわたしを見ているが、ありがとうとは言わない。けれど、お巡りさんは事務的にわたしにありがとうございます、という。
くまを背に、わたしは世界の外れへと戻る。人ごみを歩きながら、くまを拾った道を歩く。母親と手を繋いだ子供が泣いている。
わたしは世界から断絶しているから、事情はきかない。そんな中、電話が震えている。知っている番号ではないが、あまり期待しないで電話を取る。もしもし──さんのお電話でよろしかったでしょうか。わたくし、株式会社────。
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