08◆ あのときの気持ち

1/1
前へ
/123ページ
次へ

08◆ あのときの気持ち

   それからは年末進行という名の嵐が来て、気がついたらチヨが我が家のコタツでミカンを食べていた。  正月の間、うちの狭いリビングが彼女の寝床になる。客用の布団を敷くと言っていたのだが、敵もツワモノで何と寝袋を持参して来やがった。ドンキで1980円だったというニワトリ仕様のそれを見た時は、腹がよじれるほど爆笑してしまった。やっぱりチヨは最高だ。  そのくせスマホの充電器は家に忘れてきたらしく、全く用意周到なんだか間抜けなんだか。私の充電器とは互換性がないため仕方なく大晦日にドライブがてら取りに帰ると、さっそく私の知らない誰かさんから年越しコールがかかってきた。相手の正体こそ白状しなかったものの、彼女もそれなりに過去から脱却しようとしているようだ。着信にアタフタする少女のようなチヨの様子に、思わず笑みが零れる。さて、次は私が頑張る番だ。 「こんにちは、またお会いしましたね」  一月の末、いよいよ面接の日がやって来た。再び訪れたあの美術館の事務室で、ガチガチに緊張して待っていた私は、入ってきた面接官を見て口をぽかんと開いてしまった。何とその人物は、先日ここへ来た時にトイレで会ったお掃除のおばちゃんで、さらに驚いたのは、そのおばちゃんが「館長の藤本です」と名乗った事だった。 「あっ、わ、私、佐藤千夏子です!」  混乱のあまり名前を言うのがやっとの私を、老眼鏡の奥の目が静かに眺めている。年は60歳前後だろうか。半白髪の短髪で化粧っ気がなく地味な装いの館長は、なんだか学校の先生のような雰囲気がある。  やがて彼女は、この美術館が自分の親の遺産を投じた私立の施設であること、より多くの人に芸術に親しんでもらうため入館料を採算ギリギリに抑えていること、そのぶん少ない職員で搬入から掃除まで行っていることなどを説明してくれた。  館長がトイレを掃除していたのもそういう理由で、そのトイレで私は館長に泣いているのを見られてしまったのだ。先ほどの「またお会いしましたね」という言葉が蘇り、いきおい顔に血が上る。きっと変な女だと思われたに違いない。これは面接を受けるまでもなくお断りだろうと構えていると、館長がぐっと机に身を乗り出した。 「あなたの事は、とてもよく覚えていますよ」 「あ、はい」  そりゃあそうだ。私はすっかり感動に酔いしれていて、トイレットペーパーで洟をかみながら、その時は掃除のおばちゃんだと信じ込んでいた館長に、芸術がいかに心を揺り動かすものか熱弁をふるったのだ。美術館の館長が素人に芸術論を講釈されて、さぞ呆れ返ったに違いない。ところが、「穴があったら入りたい」心境だった私の耳に飛び込んできた言葉は、予想とは全く違うものだった。 「あの時の気持は、変わっていませんか」 「え?」 「変わっていないなら、ぜひ佐藤さんに来て頂きたいのです」 「あ、あのっ…」  その言葉をもらうために来たのだが、いきなり「採用」と聞いて喜びより先に疑問を感じてしまった。常識で考えれば、陶芸に関してだけでなく社会的にも経験値の少ない私は、決して秀逸な人材とは言えないはずで、そのうえ館長の前で失態を披露しているのだ。採用されるなんて、誰が思うだろう。私は館長に採用の理由を確認せずにはいられなかった。 「いいんでしょうか、私、経験も浅いですし」 「そうですね、経験はあるに越した事はないでしょうけど、それより感受性や情熱の方が大切だと私は思います」  そこでようやく、館長は笑顔を見せた。さっきまでの固い表情が嘘のような、素朴で温かい笑顔だ。その瞬間、無彩色に感じられていた風景に、ほのかな色が蘇る。受け入れられたという実感が少しずつ意識の中で膨らみ、やがて私を興奮で包み始めた。 「あの時あなたはここで、泣くほど感動しておられました。それを見て、私がどんなに嬉しかったか、わかりますか」  大失敗だと思っていたが、館長にありのままの私を見てもらえたのは幸運だったのだ。そして、それは取りも直さずこの美術館がそういう受け皿を持っているという事で、改めて自分の直感で面接を受けて正解だったと思う。  つい頭でっかちになりがちな私にとっては、生まれて初めての冒険だったが、まずは第一段階突破だ。あとは、私を見込んでくれた館長をがっかりさせないよう、精一杯頑張るしかない。 「うちは小さな美術館だから、給料が安くて雑用が多いんです。だから本気でここを愛してくれる人しか勤まりません。あなたにその覚悟があるなら、ぜひ我々と一緒に頑張りましょう」  私はただ、こくこくと頷くしかできなかった。ここで働けるのが夢のようで、泣きそうで、ほんの少しだけ新しい生活への不安もあって。今はまだ整理のつかない混沌とした感情の中、私はやっとの思いで「宜しくお願い致します」と搾り出すと、スカートの裾をぎゅっと握り締めた。
/123ページ

最初のコメントを投稿しよう!

165人が本棚に入れています
本棚に追加