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09◆ センチメンタル
春は出会いの季節であるとともに別れの季節でもある事を、私は今までこれほど認識した事はなかった。
卒業や、引越しや、失恋、あるいは父の急逝など、私も22年半の人生の中で色んな別れを経験してきたわけだが、まさかそれらがこんなに一時に訪れるなんて。自身が生まれ育った土地を去る寂しさも相まって、今の私はセンチメンタリズムに首まで浸かっている。まずその流れの先陣を切ったのは、なんと御年47歳の我が母だった。
母のお相手に初めてお会いしたのは、ホテルの中にある寿司割烹。やや緊張気味な私と弟に、温厚そうな中年男性が卓を挟んで「中垣です」と頭を下げた。グレーのスーツに控えめな柄のネクタイ、51歳の中垣さんは製薬会社の営業をしているそうだ。母の勤める病院の担当になったのが縁で知り合い、お互い気楽な独身同士という事で意気投合したのだという。
「来年あたり、入籍しようかって話してるの」
「何でよ、今すぐでもいいじゃない、私たち賛成だよ」
私がそう言うと、母はゆっくりと首を横に振った。せめて現在一浪中の弟が無事に大学に合格してからじゃないと、自分が落ち着かないのだそうだ。
「若い人たちの結婚じゃないから、焦る必要はないのよ。私も、もう少しだけ母親としての生活を楽しみたいしね」
ふふっ、と笑った母の表情は、それは優しいものだった。父が亡くなった直後は、やつれて何歳も老け込んだように見えた彼女が、女性として再び幸せをつかんだ事に、私は深い安堵を覚えた。
ちなみに中垣さんには別れた奥さんとの間に24歳になる娘さんがいるが、すでに嫁いで子供もいる。つまりは二人の結婚にあたり、何の障害もないという事だ。弟も大学に入ったら一人暮らしをすると言っているし、母には中垣さんの妻として、第二の結婚生活を存分に謳歌してもらいたい。
ホテルからの帰り道、久方ぶりに親子三人で電車に揺られながら、しみじみと家族について考えた。小牧台の頃には考えも及ばなかった未来が現実として目の前に存在し、それを受け入れている自分がいる。住所だって家族構成だってあの頃とは違うし、来年には「佐藤家」の実家がなくなってしまうのだ。
なのに、今はそれが当り前のように思える。人間とは、常に状況に応じて変化する生き物なのだろう。私も遅かれ早かれ、家族と暮らしていた時代が懐かしく思える時がやってくるはずだ。実際、今だって私は小牧台が懐かしくてたまらない。東京に引っ越して足が遠のく前に、射手矢家に挨拶に行っておこう。そう思った矢先、小牧台の方から呼び出しがかかった。
光太郎からの電話を受けて射手矢家に赴いた私に、奴は数冊の本を差し出した。
「なに、これ」
「やる」
なんとそれは、光太郎が小学校時代から大切にしていた漫画の初版本で、私が何度お願いしても「手垢がつく」と、貸してさえくれなかった、彼にとってのお宝アイテムである。
「あんた、これ、大事なもんなんじゃないの」
「いいから、やる」
「でも」
「俺、もうここへは戻ってこないから」
数日後に引越しを控えた光太郎の部屋は、夥しい数のダンボールとゴミ袋だらけで、その部屋の主いわく必要最小限のものだけ持っていき、後は思い切って処分してしまうのだそうだ。ジャージ姿で床に胡座をかいて仕分けをしている背中からは、新生活に向けての覚悟が見える。私はありがたく漫画を受け取り、積んである古本を紐でしばる手伝いをした。
「お前の事もな、色々考えた」
いつものように、突然話が始まる。こういう時は、黙って次の句を待つしかないので、私は作業をしながら耳だけを光太郎の背中に集中させた。
漫画を渡すだけのために呼ばれたのでない事は、最初からわかって来た。間もなく二人揃っての転機を迎え、もはや私たちは環境、距離、そして家族間の交誼に支えられた幼馴染ではなくなってしまう。やがて新しい生活に忙殺されるうち、お互いの存在は記憶の中の住人となってしまうだろう。
それはそれで仕方のない事かもしれない。しかし、せっかく3歳のお砂場から22歳の今まで引きずってきた腐れ縁だ。また会ういつかのために、特別なさようならを交わす必要がある。私は光太郎の言葉を待って、黙々と作業を続けた。
「高校のはじめの頃までは、本気で好きだった。それが、色々あって横道にも何度かそれたりして、そのうち何だかよくわかんなくなって」
横道なんかじゃないよ、必要な道だったんだよ、と言ってやりたかった。根っこが真面目な光太郎は、そのたびに傷ついて自分で決着をつけて、少しずつ器を大きくしてきたのだ。私はしんみりしてしまわないように、わざと明るい調子で合いの手を入れた。
「なんだか、私たちって不思議なご縁だったよね」
言いながら、手元の雑誌を力いっぱい縛る。昔、光太郎がギターに熱中していた頃の教則本だ。何度か私も階下のリビングで、下手なアルペジオを聴かされた事がある。懐かしくてじっと見ていたら、光太郎が自分ルールでさっきの話の続きを語り出した。
「お前が俺にとって、特別な人間である事は変わらないけど、今はまず仕事で一人前になるしかない。しばらくは、自分の事ばっかりだ、たぶん」
だからな、と言葉を切ると、光太郎はようやく私の方を振り向いた。
「取りあえず、一旦お別れだな」
鼻の奥がツンとしたが、頑張って笑顔を満面に貼り付けた。
「元気でね」
「お前も、な」
私が差し出した手を、光太郎がためらいがちに握った。圭吾みたいな大きな掌ではないが、それでも私よりうんと分厚くて骨張っていて、ちゃんと大人の男の手になっているのが、何だか切なくて仕方ない。
この先、どんなに距離が離れても、結婚しても、年をとっても、いつだってお互いが大切な人間であることに変わりはない。そのうち落ち着いたら、また一緒に酒でも飲もう。ただし、今よりうんと成長している事が、私たちの再会の条件だ。
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