ハウスキーパー見習い・まよ

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「ご家庭のあれこれ手伝います」と書かれた看板を前に、大倉まよはもじもじしていた。 手にはアルバイト情報誌をぎゅっと握りしめ、緊張のせいで顔が少し青ざめている。 もうとうに約束の時間を過ぎてしまったというのに、相手を待たせていると分かっていても、どうしても足が動かなかった。 「中肉中背」という表現がぴったりの平均的日本人体型、「しもぶくれ」の豊かな頬、「なすび」と形容されがちな膨らんだショートカット。 今年で25歳のまよは、高卒後7年務めた会社を解雇され、路頭に迷う寸前にいた。 幸い贅沢もせず真面目にコツコツ貯金をしていたので、今すぐどうこうなるというわけではなかったが、このまま職が見つからなければあと半年でアパートを追い出される計算である。 毎日の食事は、近所のパン屋さんでもらってきた食パンの耳、特売の卵をかけたごはん、8円で買ってきたもやしをしょうゆで炒めたものの繰り返し。 つい先日までは、豪華とは言えないものの、人並みに肉を焼いたり、デザートにヨーグルトを食べたりしていたのに、とむなしくなるが仕方ない。 そんなある日、いつものようにもやしを買いに出かけたスーパーに、アルバイト情報誌が置いてあるのを見つけた。 「ハローワークに行ってもなかなかいい仕事が見つからないし、とりあえずバイトでもするか」とその冊子をもらってアパートに帰り、じっくり読んでみると、「ハウスキーパー募集!」という文字に目を奪われた。 ハウスキーパー。つまり、お手伝いさんということか。 自慢じゃないが、一人暮らしで自炊歴も長いまよは家事が得意だ。 料理はなんでも一通り作れるし、アイロンがけの見事さはプロも顔負けの腕前。 これは私にぴったりの仕事じゃないか……とほくほくしつつ、募集要項を読み込んでみると、なんと住んでいるアパートから歩いて5分の場所にある会社だと分かった。 一瞬、「このあたりにそんな会社あったっけ?」と疑問に思ったが、添えられている簡単な地図を見ると、いつも職場やスーパーに行くのに通る道とは反対方向であり、単にそのあたりをあまり通ったことがなかったのだと納得する。 とにかく職を得なくてはと焦っていたまよは、すぐに応募の電話をかけた。 3コール目で「はい」と電話に出たおばさんの声はものすごくしゃがれていて、何を言っているのか少し聴き取りにくかったけれど、どうにか「明日の午後3時に面接」ということが決まり、礼を言ってから電話を切る。 そこまでは勢いでできてしまったが、元来恥ずかしがり屋で引っ込み思案な性格のまよは、電話を切ってしばらくするとだんだん不安になってきた。 電話に出たおばさんは無愛想で感じが悪かったし、ハウスキーパーということは人様の家に上がり込んで働くということで、何かトラブルがあれば相当まずいことになりそうだ。 そもそも、一人暮らしのアパートを不自由のないように整えてきた程度である自分の家事能力が、プロとしてちゃんと通じるのだろうか。 いろいろ考えていたらどんどん不安になって、まよは何度もやっぱり面接を取り消してもらおうかとスマホに手を伸ばしかけた。 しかし。 早く仕事を決めてしまわないと、家賃35,000円の激安アパートにすらいられなくなってしまう。 両親との折り合いが悪く、逃げ帰ることのできる場所を持たないまよは、なんとかここで踏ん張るしかないのだ。 とにかく、まずは面接に出かけてみよう。 そう決心すると急にお腹がすいて、まよはレンジでチンした冷凍ごはんにのりたまを薄くかけて食べた。 ふりかけなんて贅沢品、いつもなら絶対に買わないのだが、今日はお店でアルバイト情報誌なんて見つけてしまったものだから、まだ仕事が決まったわけでもないのになぜか気が大きくなり、大好物ののりたまをもやしと一緒にカゴに入れてしまった。 このバイトがうまくいけば、毎日のりたまをたっぷりかけたごはんが食べられる。 久しぶりに味わったほんのり甘い卵の味に満足し、不安な時は寝てしまうのが一番! とばかりに、まよは早々に布団に入った。 そして迎えた翌朝。 最初のうちはのりたまを頭に思い浮かべてワクワクしていたが、約束の時間が近付くにつれてまた緊張が高まってきた。 社長が怖い人だったらどうしよう。 女の職場だから、陰湿な新人いびりがあるんじゃないか。 仕事が雑だと言って、お客さんからクレームをつけられるかもしれない。 考えだしたら不安でたまらなくなり、アパートでじっとしているのが耐えられず、まだ約束の3時まで30分以上もあるというのに玄関を飛び出し、会社の周りをうろうろと歩き回るはめになった。 そして今度は、こんなところを近所の人に見られて「不審者だ」と通報されたらどうしようと別の不安が頭をもたげてくる。 まよは、自分のこういうところが嫌いだった。 7年も勤めた会社をあっさりクビになったのも、慎重すぎて仕事が遅かったり、ネガティブな性格で周囲とうまくコミュニケーションがとれなかったりしたのが原因だと思う。 去年入ってきたばかりの新人に、陰で「根暗なすび」とあだ名をつけられていたと知ったのは、部署のみんながお義理で開いてくれた送別会の席だった。 べろべろに酔っぱらったもう1人の新人がまよに酒を注ぎに来て、「せんぱぁい、次の職場ではもっと周りとコミュニケーションとったほうがいいっすよ。聡子なんて、先輩のこと根暗なすびって呼んでるんすからぁ!」と大声で言い放ったのである。 その瞬間、場の空気がカチンと音を立てて固まった。 その沈黙が、自分以外の人間全てに「根暗なすび」というあだ名が浸透していたことを如実に物語っており、ただでさえ居心地の悪さに早く帰りたいと時計ばかり見ていたまよは、いたたまれなさに慌てて席を立ち、お礼の挨拶もそこそこにその場を逃げ出した。 小走りに走って駅に向かう間、誰も自分の後を追いかけてはこなかった。 自分が職場で浮いているのは分かっていたが、まさかあんなひどいあだ名をつけられていたなんて。 あふれてくる涙を必死にこらえ、まよは駅のホームの片隅で気持ちを落ち着かせてから電車に乗った。 幸い、もう明日からあの会社に行くことはないし、職場の人達と顔を合わせることもない。 そのことだけを拠り所になんとか気持ちを奮い立たせ、とぼとぼとアパートに帰ったのである。 そんなことをつらつらと思い返していたら、またあの時の悔しさやみじめさが蘇ってきた。 ダメダメ。 これからあんたは仕事の面接に臨むんだから、もっと明るい顔でしゃっきりしてなくちゃ。 でないと、ハウスキーパーの仕事なんて絶対に受かりっこないよ! そう自分に言い聞かせつつ、ちらりと腕時計を見る。 時刻は午後2時58分。ちょうどいい頃合いだ。
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