スターターピストルは鳴らさない

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 その彼方から再び地下通路に現れたのは、翌週の金曜日。  飲み会の帰り、地下通路に下るとそのOLがいてギョッとした。  今度はパンプスを握っていない。ちゃんと履いている。と思った矢先、パンプスを脱ぎ捨てた。  は?なにを始める気ですか?  電話するふりして、気づかれないように斜め後ろから近づいた。横顔すら見えないけれど、一直線に伸びる通路を睨みつけているのはわかった。  殺意に満ち溢れ背中だぁ。突飛な行動起こしたら止めなきゃまずい。幸か不幸か23時過ぎだから帰宅ラッシュは終わっていて、酔ったリーマンと疲労困憊で自分しか見えていないリーマンしかいない。犠牲者は俺含めて2,3人で済むだろう。どうか大事になりませんように。  OLは深呼吸して、軽くジャンプし、膝をついた。  膝をついた?あれさ、クラウチングスタートだよね?100m走の。いや、な、なにしてんの?なにするの?  OLの挙動に目をパチクリさせていると、彼女の首がクルッと俺に回り、目がバシッと合った。 「あんた、スターターやってくれない?」反射で目線を天井に逸らし「あ、お世話になりますぅ」と言って無視する。 「突っ立ってるあんたよ。今目が合ったでしょ!」 「あ、わ、私ですか?」 「そうよ。スターターやって」 「すた?」すたーたぁ? 「陸上やってたんでしょ?短距離と跳躍種目だったけ?」  だったけ?ってどういうこと?なんで知ってんの? 「集中切れる前に早く」 「う、うあい」変な返事。できるっちゃできるけど。  クラウチングOLに近づいて、手のヒラをだす。 「お、おん ゆあ まぁーく」 「発音最悪。やる気ある?」すいませんと謝った。 「オン ユア マーク」  OLは先を見据え、顔を下した。まじで100mやる気だ。 「セット」― ぱちん。  遠慮がちに手を叩いたが、OLは遠慮なく床を蹴り飛ばし、丸の内では一生見られないであろう綺麗な前傾姿勢で、地下通路を突き進んでいった。  はえー。経験者だ。裸足であの加速はやばくない?  30、40mくらいで減速して、オリンピック選手のごとく腰に手をあてて帰ってきた。  この人なに? 「どうだった?」  いや、どうだったと言われましても。何されるか分からない。とりあえず逃げ出したい。殺されるかもしれない。 「おは、お速いですね。陸上やられてたんですか?僕はこの後用事があるので......」 「金曜の飲み会後に用事なんて無いでしょ。もう1本やるわよ」 「が、頑張ってください!応援してます」  身体を帰路に向かわせようとすると、 「スターターやって」  目が怖いよ。やらなきゃ殺るって目してる。従っておくしかないのか。一秒でも長く生きたいもんな。 「わ、わかりました。もう1回だけ……ですね」  実際のところ生きてる心地がしなかった。きっと俺はあそこに脱ぎ捨ててあるパンプスで殴り殺される。それかカバンから殺傷能力を有する鈍器でぶん殴られるんだ。  スプリンターOLはまた深呼吸して軽くジャンプした。 「発音良くね。留学行ってたんでしょ?」  だからなんで知ってんの?怖すぎるよ。 「お、on your mark……」スタートしたら逃げよう。ダッシュで大手町から出よう。東京駅から帰ろう。  OLが姿勢を整えながら言う。 「カバン見ておいて。逃げたら追うわよ」 「……はい」もうだめだ。俺終わったよ。 彼女は一直線に伸びる通路を見据え、丁寧に全身で呼吸した。 「set」 ― パンッ!  空を切る鋭さで彼女はトップスピードを目指していく。
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