色なき風の頃

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冷静になろう。気持ちを切り替えよう。真っ新らなマウンドに上った時のように…。 そう思いながら、今迄なんの気なしに、習慣のように手首に巻いた革紐に、ふと手が止まる。 数日、予約もまばらで、出勤して来たばかりの可奈さんに、一人さんは、今日はもう上がってくれていいですよ。なんで言っている。 可奈さんは、そう言われるのを待っていたみたいに、帰ってしまった。 僕は、薬の在庫をチェックしたり、戸棚の整理や窓拭きやらをして動いている。 ソファで雑誌を広げている一人さんは、そんな僕を見て言った。 「早橋君さぁ、心此処に在らずって時は、無駄に動くよね」 「無駄にって…」 「ごめん。綺麗になって気持ちいい。ありがと。の間違いだった」 「意味わかりません」 「なんか、ぼんやりしてない?」 「してません」 「そう?ならいいんだけど」 心此処に在らず…か。 多分、ぼんやりしている。 側に居ると、その人の呼吸とか、視線とか、些細なことに気づく。 側に居る…とはそういうことだ。 「今日さ、早仕舞いしてうち来ない?何か予定入ってる?」 「別に…何もないです」 「トウヤが早橋君に頼みがあるって」 「桜間さんが?」 「うん、早橋君も気分転換になるんじゃない?」 「気分転換…」 「ご馳走作って待ってるって言ってたからさ」 「はい…」 カットの客が帰ると、6時にはさっさと閉めてしまった。 時々、一人さんは仕事、楽しくないのかなと思うことがある。 止むを得ず、溝の出来た母親と同じ空間に居る。ような…。 梓さんは、また入院していた。見舞いには行っているようだったが、何処か事務的で、様子を尋ねても面倒くさそうな返事しか返って来なかった。 自転車を引きながら、桜間さんの待つ一人さんの家に向かった。
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