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私は焦っていた。
長いトンネルの合間に見える車窓からの景色は青々と茂る葉を広げる木がひしめき合う山々だった。
しばらくすると山の頂は低くなり、背の高い建物が増える。その中心に吸い込まれるようにして車両が止まった。
中核都市から乗車する客は、私の乗った田舎街では想像もつかないほどに多かった。
その人の多さが私の焦りに拍車をかけた。
最悪なことに連休が長いからUターンラッシュも分散されるだろうと呑気に考え、買った切符は乗車券と特急券だけ。自由席はデッキまで人が溢れている。
始発駅から一つ目の駅で乗った私は幸いにも座席は確保出来ているがトイレにでも立てばすぐにそこを奪われることは想像にかたくない。
そんな中、もよおした。便意ではない。確かにお腹がゴロゴロするが、これはガスを放てば落ち着く違和感だ。
だがそれが問題だった。なぜならば、朝から屁が臭いのだ。
昨夜の夕飯は私の大好物であるニンニクをたっぷり使用したニラ餃子であった。母が帰省最後の夜だからと皮から手作りした気合いのこもった逸品だ。
つい箸が進んで食べすぎたのは仕方あるまい。
隣合わせる他人のことを考えて口臭はケア用品とマスクでクリアしたのだが、腹の中のニンニク臭は成すすべがない。
己の身なのに思い通りにいかぬことが只々もどかしい。
さりとて今の緊急ミッションはこの人ごみの中、いかに気づかれずに腹に溜まるガスを放出するかだ。
私は思考する。
徐々にガスを排出するには、まず括約筋の調節が不可欠だ。うっかり暴発なんてことにならないように臀部にしっかりと力を込める。
同時に座席に尻をしっかりと押し付け、悪臭が空気中に霧散するのも抑止した。
そのまま腹直筋を使い、波のうねりのように発生する熱を直腸まで押しやる。焦るな、不発弾を残さぬようジワジワと追い詰めろ。
車内は冷房が効いているはずなのに額から汗が吹き出し、腋や背中に張り付くシャツが私の集中力を奪う。
集めた熱を全臀筋を結集させてストローのように細くした直腸から少しづつ排出する。ここからが正念場だ。
細心の注意を払いながら、夏の終わりに沈みゆく美しい夕焼けを惜しみながら見つめるように、哀愁さえ帯びる熱を少しづつ抜いてゆくのだ。
最後は腹の筋肉、内蔵、脂肪でもって押し出すように……出し切った。
やった、私はやりきったのだ!!
一人歓喜する私とは対照的に、全てのガスを吸い込んだ深く蒼い座席は何も言わず尻の下に佇み、私の成した偉業が諸行無常のひとつにすぎぬと語っている。
脱力して沈みこんだ私はだが次の瞬間、背筋に稲妻が走った。
通路を挟んだ隣の席に座る幼子が無邪気に糾弾をしたのである。
「お母さん、おならくさーい」
途端に周囲の人間は怪訝な、責めるような視線を幼子の母へと向ける。
「は?お母さんじゃないよ!違うよ、何言ってんの?」
母親は必要以上に声高に身の潔白を叫んでいる。けれど一度向けられた疑惑は簡単に翻るものではない。
ゆで卵の腐ったような、硫黄を発酵させたような強烈な悪臭が漂えば尚更のことだった。
なおも潔白を叫ぶ母親に、周りは真犯人を探し始める。
悪者を炙り出すような視線は集団であることも相まって徐々に凶暴さをまとい、理性的な部分が圧し殺されて元来の猟奇的な感情が露わになってゆく。
私がここで正直に名乗り出れば私刑に処されてしまう、と軟弱な心が警鐘を打つ。
見知らぬ母親には申し訳ないが私の罪を被って欲しい。いいや、誰でもいい。この周囲の毛の逆立つような悪感情を浴びてくれるものがいれば私は安穏とこの席で生き延びられるのだ。
私の中にこんな賎しい部分があったことは前々からなんとなく気づいてはいたが、こうもはっきりと認識してしまってはその感情は歓喜を伴って暴れ回る。
更には偶々そこに居合わせた不運な人達が一向に名乗り出ぬ犯人を視線で必死に探すのを見ていると滑稽さすら沸いてくる。
そして薄れゆく臭いの中で突如として神の啓示の如き閃きを得た。私はこのまま何食わぬ顔をして目的の駅で下車すればいいのだ。そうすれば私の悪事は断罪されることは後生無いだろう。今この瞬間さえ逃れればよいのだ。
そうと決まれば周囲の人間と一緒になって、犯人を探すかの如く周囲に胡乱な目を向ける。
名も素性も知らぬ人ごみのなか、私自身も集団を形成する塵芥の一つになって浮き出ようとする個を探すのだ。
何も難しいことはない。卑しさを全面に押し出せば簡単なことだった。
そうして見事に擬態を果たしたのち、追加で二発のガス弾を車内にお見舞して人々を混乱と不快へと導きながら帰路についたのだった。
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