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2. 涼太
時間ぴったり。結局また来てしまったこの公園。
仕事はまだ残ってるけど、適当に切り上げてやってきた。どうしてか分からないけど、もう一度あの人に会いたいと思った。
ベンチの上に置いたコンビニの袋の中には缶ビールが2本と猫缶。
お先にお疲れ様でしたと一人で呟いてプルタブを引いた。
「あ、本当に来たんだ。」
「あ…りょうた、さん。」
昨日と同じ、黒いキャップにマスク姿で現れた彼は私の隣に腰を下ろす。今日は何も持ってきていないようだったので、もう一本の缶を差し出した。
「飲みます?」
「あー、うん。ありがと。」
二人して無言のままビールをちびちびと喉に流す。
ほんとに何してるのかわからないけど、疲れた頭では何を話したらいいのかすら分からなくてぼーっと前を見つめたままため息をついた。
「今日は来ませんね、ハチ。」
「誰かに餌もらったんじゃない?」
「りょうたさんには懐いてるように見えましたけど。」
「誰でもいいんだよ、ただメシ貰えたらそれでいい。」
「いじけてます?」
「別に。」
「ほんとはさみしいんでしょ。」
「うるさいな。」
横目で睨まれてからかいすぎたかと少し反省する。でも図星だから拗ねるんでしょう、の一言はビールと共に飲み込んだ。
「りょうたさんお仕事は?」
「内緒。」
「え、何、ヤバイ仕事なの?」
「言わない。」
「秘密主義なんだ。」
「夏は?」
「私は通訳やってる。」
「へえ、大変そう。」
「まあね。残業は多いしお局はうるさいし。特にこの仕事にこだわる必要も無いのかなあ、なんて。…私のことだけ聞いといて、ずるくない?」
「仕事は…色々やってる。」
「ふーん。まあ、言いたくないならいいけどさ。」
「夏は何歳?」
「今年28。」
「同い年だ。」
「ねえ、どうしていつも帽子とマスクなの?」
もしかして芸能人とか?なんて笑いながら言ったら彼は黙ってしまった。
「…ほんとに?」
「帰る。」
「待って待って待って!ごめん。今のは無し。私は何も聞いてない!だから帰らないで。」
立ち上がった彼に、両手でごめんのポーズをして頭を深く下げる。一瞬変な空気が流れたかと思ったらりょうたさんはふっと笑って、俯いたまま帽子をかぶりなおした。
「なんでそんな必死なの。」
「…分かんない。分かんないけど、このままりょうたさん帰ったら二度と会えない気がして…」
はあ、とため息をついた彼は足を組み替えて私をちらりと見る。
キャップの影から覗くブラウンの瞳にドキッとして目をそらした。今ちょっと顔赤いかも。てかなんで赤面してんの私。
「夏って大胆なのかシャイなのかどっち?」
「…今は酔っ払ってるからどっちも私じゃない。」
「ふーん。じゃあさ、」
私に覆いかぶさるように距離を詰めたりょうたさんは正面から私の瞳をじっと覗き込む。
やっぱりどこかで見たことある…でも思い出せなくてしばらく見つめていたら、優しく頬に手を添えられた。
「本当の夏を教えてよ。」
ふわりと香るスパイシーで甘い香水。あ、私の好きな香りだ、なんてぼんやりと考えていたら彼が被っていたキャップを無理やり被せられた。
りょうたさんの髪は思っていたより明るかった。しかし見えたのもほんの一瞬、今度はパーカーのフードで隠してしまった。
「何この帽子。」
「被ってて。」
「は?」
私が買ってきた猫缶が入った袋を掴んだ彼は、反対の手で私の手を掴んで立たせる。
…わ、思ったより背が高い。広い肩幅に久しぶりにキュンとしていたら彼は歩き出した。
「どこ行くの?」
「ついてきて。」
ブカブカの帽子は頻繁に視界を遮る。帽子のツバを上げるついでに彼の横顔を盗み見てみたけど、マスクをしているせいで表情は分からなかった。
人通りの少ない住宅街を抜けて到着したのはいかにも高級そうなタワーマンション。
慣れたようにオートロックを解除してエレベーターに乗り込み、あっという間に着いた18階。
「ねえ、」
「ここまで来て帰る?」
「そうじゃなくて…」
「大丈夫。何もしないから。」
昨日会ったばかりの男の家に上がるなんて、軽い女だと思われただろうか。
当たり前だけどこんなの初めてだし少し怖いのに、繋がれた手を離したいとは全く思わなかった。
しっかりと握っている細くて長い指は女性の手のように綺麗。人差し指のホクロがセクシーだなあ、なんて。
暗証番号を押して玄関を開けた彼はどうぞ、と私を中へ押しやった。
「…お邪魔します。」
「スリッパ適当に好きなやつ使って。一番右は同居人のやつだからそれ以外で。」
「あ、はい。」
同居人…一体誰と住んでいるのだろう。玄関やスリッパだけでは男性か女性かすら分からない。
前を歩く彼に続いてリビングに繋がると思われるドアが開くと、ガヤガヤとテレビの音が聞こえた。
「ただいま。」
「おーおかえり。…って、また女の子連れてきたの?」
「この人は違うから。」
ソファーでテレビを見ながらくつろぐ男の人は黒髪でふわふわとパーマがかかっている。
…これまたイケメン。長い脚を余らせて寝転がっている。
ども、と会釈してくれたので私もぺこりとお辞儀を返す。
それにしても広いリビング…私のワンルームの何倍あるのだ。ぼけっとしていたら冷蔵庫から缶ビールを2本取り出した彼がこっち、とまた私の手を引いた。
白いドアの向こうはどうやら彼の部屋のよう。真っ先に目につく電子ピアノやギター、機材、パソコン。ふわりと微かに感じるあの香水。
「適当に座って。」
「あ、はい。」
どこに座ればいいか迷ってキョロキョロした後、とりあえずチャコールのソファーに腰を下ろす。
座った瞬間からわかるフカフカ具合に感動し、伝えようと顔を上げてりょうたさん!と声を上げた。
それとほぼ同時にフードとマスクを取った彼は私を振り返る。
「あ…」
「やっと気付いた?」
にやりと笑った彼は私が被ったままの帽子を取り上げて壁に掛けた。
「え、うそ、涼太……」
「さっきまで涼太"さん"だったのに。」
私のバカ、ばかばかばか!どうして気づかなかったのだ。私の目は節穴か?私の耳はトンネルなのか?筒抜けなのか!?
灯台下暗し!一番好きな歌手の声まで分からなくなるなんて、缶ビールで酔っ払いすぎである。
「な、な、なんで?」
「そういう鈍感なとこ、気に入ったから。」
覆い被さるように顔を近づけられて頭は余計にパニック状態で、半開きの口はアワアワと声にならない声を出す。避けようとして体を倒せば押し倒されたかのような状態になる。
何もしないって言ったくせに…!でも悔しいけどかっこよくて目が離せなくて、今はよく見える明るい髪が照明の光を受けてきらりと輝いている。
「顔真っ赤だけど、処女なの?」
「…ちがっ、なんでっ?えっ、え?」
「今から夏に選択肢を二つあげる。」
身動きが取れないように両手首を掴まれて、ひとつめ、と彼は呟く。
「ここで一晩過ごして二度と会わない。」
「は…?」
「ふたつめ、俺のお嫁さんになる。どっちがいい?」
にこっと口元だけで笑った彼はサイコパスなのか。意味がわからない二択を与えられて頭がぼんやりとする。
抵抗しようとしても動けなくてもう何が何だかわからなくなる。
「い、意味わかんない。」
「何も難しく考えなくていい。簡単じゃん。」
「ちょっと待って、離して。」
「離したら逃げるだろ。」
「叫ぶよ。」
「ここ防音だから好きなだけ叫んだらいい。」
どうする?と楽しそうに聞いてくる彼は私が知ってるアーティストの涼太ではなかった。悲しいのかな、信じたくなくて涙が滲む。
「わかった。お願い、逃げないから離して。このまま話すのやだ。」
「しょうがないなあ。」
やれやれというように眉を下げた彼は私の上からゆっくりと退く。隙を狙って彼の大事な部分を蹴り上げた。
「うっ…!おま、おい!」
部屋を出て助けを…そうだリビング!と、走ってドアを勢いよく開けると、同居人さんが驚いたように私を見た。
「どしたの?」
「…っ変態!変態が!」
「誰が変態だよこの野郎。」
「ひっ!」
後ろから首に腕を回されて動けなくなる。それにちょっと首しまってる…!
助けて、と視線を送ると黒髪パーマさんは困ったように眉を下げた。
「涼太、女の子にそんな荒い扱いしちゃダメでしょ。」
「うるせー、こいつ俺の大事なところ蹴りやがったんだよ。ただじゃ帰さねえからな。」
「やだあー!助けてー!」
「まあまあ二人とも落ち着いて。」
涙目の私を見てソファーから立ち上がった彼がこちらへ歩いてくる。涼太にがっちりと体を押さえつけられたまま、その人は私の顎をくいっと掴んだ。
「可愛い顔してるじゃん。涼太いらないの?」
「は?」
「いらないなら俺がもらうけど。」
「…は?」
いらない、もらう、とは。
私も涼太もぽかんとしていたら、ふっと笑った彼にキスをされた。
「…おい、何してんだよ。」
「え?何って、チュー。」
もう意味がわからなくて、次第に目の前がぐにゃりと歪んでそのまま意識を手放した。
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